【復活前第2主日】
礼拝説教「最も小さな者」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書7:18-35
<讃美歌>
(21)25,11,156,390,65-2,29
礼拝の後、オリーブ会という集まりで、その日の説教について思いを巡らせて分かち合います。あるとき、説教そのものについて、説教とはそもそも何であるのかという問いかけがありました。とてもいい質問で、私は説教は聖書を語りかけるものであって、主イエス・キリストの福音の説教、福音の慰めの説教として語りかけていることを話しました。そして、語る自分自身が一番恵まれていると感じている、聖書の語りかけを聞いて、恵まれているからこそ語ることができることを伝えました。今日の箇所でも、ああ、そうなんだ、という深い気づきと言うべき、恵まれた経験をしました。与えられた御言葉の恵みに心を打たれて、なぜルカがここに記したかがよく分かるような思いになったのです。ご一緒に、ルカが伝えた御言葉の恵みに思いを深めていきましょう。
与えられた箇所には、洗礼者ヨハネの主イエスへの問いが記されています。19節「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」「来たるべき方」とは、来たるべき救い主のことです。表面的に読むと、ヨハネはこのとき、主イエスが救い主であるかどうか、迷っていたように読むことができます。果たしてそうでしょうか。実際にヨハネが迷っていたわけではないと考えますが、ヨハネの問いかけは、昔からとても大切な問いかけとして受けとめられてきました。
ヨハネはなぜこのとき、使いの弟子たちを行かせたかというと、マタイ福音書によれば、ヨハネは投獄されていました。ヘロデ王に対してヨハネが、自分の兄弟の妻を奪って結婚するのはよくない、と戒めたことが直接の原因とされます。彼は、牢の中で祈ったでしょう。しかし事態は全く変わらなかった。私どもも、祈ってもなかなか事態が変わらないことを経験したことがあるのではないでしょうか。そのような時に、「来たるべき方はあなたでしょうか。」と弟子に質問に行かせているということです。
昔からよく言われてきたことは、ヨハネは弟子たちのために質問に行かせたというのです。洗礼者ヨハネの弟子たちが、主イエスの弟子とはまだなっていなかった。なかなか主イエスを救い主(来たるべき方)と信じられないでいる弟子たちを質問に行かせて、主イエスから語ってもらおうとしたということです。
あるいは、ほんとうにヨハネは迷っていたと考える学者もいます。迷いやすい私どもにとっては、洗礼者ヨハネであっても迷うなら、親近感が持てるかもしれません。
しかし、ドイツのゴルヴィッツァー牧師の説教が、加藤常昭先生によって紹介されていました。ナチスの時代に信仰の戦いをしていたゴルヴィッツァー牧師は、ヨハネは迷っていたのではないと語ります。ヨハネは主イエスを来たるべき方、救い主として信じていた。しかし現実のただ中で無力感に悩まされていたというのです。ゴルヴィッツァー牧師が教会に仕えていた当時、ナチスが勢いを増す中で、キリスト者として信仰の戦いを重ねて何も変わらないどころか事態は悪化していった。その無力感にさいなまれる姿とヨハネを重ねるようにして、ヨハネは、今一度主イエスから語っていただきたかった。それは、自分の中に何も確かさがなかったからです。主の御言葉を必死に求めていたというのです。
主イエスは「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。」(22)と言われました。その内容は、終末の完成を垣間見るような姿です。「来たるべき方」という言葉は、原語でホ・エルコメノスという言葉で「来たりつつある方」と訳せます。それは、終末の完成に向けて、かつておられ今おられやがて来たるべき方、すなわち、来たりつつある方です。主は今も私どもと共にいて、救いを完成に導こうと働いてくださっているのです。
主イエスがヨハネの弟子たちに語りかけられた言葉を思い巡らしましょう。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(22)ヨハネの弟子たちは見聞きしたことを伝えました。
しかし立ち止まって考えると、私どもはそのようなことを見聞きしているのだろうか、と思われるかもしれません。見聞きして確かめられないと、主イエスが来たりつつあるお方、救い主として生きていられることを確信できないことになってしまうのでしょうか。私自身深く教えられたことですが、ここで、牢にいて実際に見聞きして確認できないヨハネは、弟子たちから伝えられたことによって、確かさを与えられていきました。ルカの時代の教会もまたそうであったのです。主イエスが実際になさったことを見たり聞いたりする時代ではなくて、伝えられたことを聞いていったことでは、投獄されていたヨハネと同じでありました。不自由さと無力感に悩まされていた。しかし、そこでこそヨハネと同じように福音の慰めと確かさを与えられていったのです。私どももまたそうであります。だからこそ、ルカは思いを込めてここに洗礼者ヨハネの問いかけを記しました。ヨハネ同様に、伝えられて信じていく幸いが、今もなおあることを語りかけているのです。ああ、そうなんだ、という深い気づきと言うべき恵みの語りかけです。
主イエスは「わたしにつまずかない人は幸いである。」(23)と祝福されました。罪深い私ども人は、主イエスにつまずくことがあるのです。しかし主はつまずく私どもを招いて、「わたしにつまずかない人は幸いである。」と祝福されました。つまずく私どもを招いてお救いくださる祝福の言葉として聞くことができます。この祝福のもとに身を委ね続けていく必要があります。
つまずくというというのはどういうことでしょうか。ひとつには、主の導きが私どもの考えや願い通りでなくてつまずくことがあるのです。
主は、たとえを話されました。子どもたちがごっこ遊びをして、「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。」(32)とまわりの子どもたちに文句を言っているのです。「笛を吹いたのに」というのは、おそらく結婚式ごっごと思われます。「互いに呼びかけ」(32)とありますので、文句を言われているもう一方のグループが「葬式の歌を歌ったのに、泣いてくれなかった」と言って、文句を言い合っているのです。その姿と、私どもが似ていると戒められます。子どもの遊びやママゴトを否定しておられるのではもちろんありません。私どもが、自分の考えに主が従ってくださらないと身勝手に嘆くことを戒めておられるのです。
主は「わたしにつまずかない人は幸いである。」と祝福して招かれました。その招きは、つまずくほどに広く深い神の愛によるものです。罪深い私どもを心から招いて赦しお救いくださるからです。主は、洗礼者ヨハネと比較して「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である。」(28)それほどに私どもを深く心にとめてくださっています。私どもを愛して、価値を見いだし、導いてくださるのです。そうであるなら、互いを尊ぶ必要があるでしょう。キリストの愛に動かされて、私どももまた、「神の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である。」との御言葉に生きることができるのです。神の国で最も小さな者とは、主イエス・キリストを救い主と信じて、礼拝生活を守っている人のことです。神様によって生み出された存在です。たとえ小さな礼拝の群れでも、神様の目からはかけがえのない存在として慈しんでくださっているのです。
さきほど、ああ、そうなんだと教えられたと言いました。「行って、見聞きしたことを伝えなさい」と言われた主イエスの御言葉はまた、キリストの愛に動かれて生きる者たちの姿として聞こえてきます。来たりつつあるお方のお働きは、今もなお続いているのです。伝えられて信じていく幸いだけではないのです。
私どもにも主は「行って、見聞きしたことを伝えなさい」と語りかけられているのではないでしょうか。私どもは、教会生活の中で、悲しみの人がなぐさめられ、絶望の中から起き上がる経験をしているのではないでしょうか。私どもの体にたとえるなら、目の見えない人が見え、足の不自由な人が歩くことであるのではないでしょうか。
何より「行って、見聞きしたことを伝えなさい」と言われた主イエスは「貧しい人は福音を告げ知らされている。」と言われます。「貧しい人は」神の助けを必要としている貧しさを持っている人、私どものことです。
ここに主の助けを経験する礼拝がすべての人に開かれていること、集う私どもが主の恵みを生きていることを伝えることは「行って、見聞きしたことを伝えなさい」と言われた主の御言葉に従うことです。「行って、見聞きしたことを伝えなさい」と言われた主が、その御言葉と共に働いてくださることを信じていきましょう。
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