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shirasagichurch

2023年3月19日(日)

【復活前第3主日】

 

礼拝説教「なぐさめられる」  

 願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書7:11-17


<讃美歌>

(21)25,8,132,532,65-2,29


 主イエスはナインという町に行かれました。そこで、葬儀に出会われたのです。ある母親のひとり息子が死んで、その棺が担ぎ出されるところでした。その母親はやもめであったと記されています。(12)


 当時の社会で、やもめはもっとも弱くさせられたひとりでありました。息子の年齢は書かれていませんが、主イエスが「若者よ」(14)と呼びかけておられるので、おそらく経済的にも母を支えていたと思われます。母にとってはたったひとりの家族、希望であった。


 「町の人が大勢そばに付き添っていた」(12)とあります。彼女の悲しみの大きさに、町の人たちも寄り添っていました。しかし、誰ひとりとして彼女を本当に慰めることはできなかったのではないでしょうか。人がどうしても届くことができない悲しみの中に、この母親は置かれていたのです。私どもも、だれにも本当には分かってもらえない悲しみや思いを経験したことがあるのではないでしょうか。ご一緒に主イエスの御言葉に思いを深めていきましょう。


 主イエスは、彼女のすべてを受けとめていかれました。

「主はこの母親を見て、憐れに思い」(13)とあります。「主は」と書かれています。「イエスは」ではないのです。これは「イエスは」「主」なる神であることを信じて記しているのです。主はまことに憐れみ深い神です。ここに記されていることは、私どもの話でもあるのです。


 主イエスが「この母親を見て、憐れに思」われました。「憐れむ」という言葉は、聖書の原語でスプランクニゾマイという言葉で、お腹が引き裂かれるような痛みをもって心にかけることです。主イエスは、母の痛みをご自分の体の一部の痛み、悲しみとして共に担われたのです。誰も届くことができない悲しみに、主はご自分のこととして届いていかれました。主は、私どもがじっと見ることができないところを確かに見つめられ、受けとめられないものを受けとめ、誰も届くことができない悲しみになぐさめを与えてくださるのです。


 主は「もう泣かなくともよい」と言われた。これは、葬儀のようなときに、泣いてはいけないということではないのです。主イエスは、あなたの悲しみに、その絶望になぐさめを与え、救いをもたらす主なる神であると語りかけられるのです。


 主イエス・キリストが、「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」(14)と語りかけられると、息子は生き返りました。人々は、神への畏れを抱き、神を賛美しました。

 悲しみに沈み込んだ葬儀の行列が、主イエスによって神をたたえる礼拝の行列へと変えられたのです。神を畏れ賛美を献げる礼拝の行列は、世々にわたって受け継がれ今に至っています。白鷺教会も主をたたえる礼拝の列に加えられているのです。


 この息子は生きかえり、おそらくは母を看取って、やがて自分も二度目の死を迎えたでしょう。しかし彼にとって死はもはや終わりではなかったのです。主イエスを信じて死に横たわることができたからです。


 母と息子は、やがて主イエスが十字架に命を献げられ、死から起き上がって復活された福音に生きるようになったはずです。いま、教会ではイースターという主の復活を祝う礼拝の準備のとき、レントを過ごしています。母と息子は、主の復活の証人となったかもしれないと思います。あるやもめの息子が生き返ったことは、主イエスの復活を指し示した特別な神の出来事です。死んだ息子が生き返ることは考えられないことですが、主イエスが復活されて今もなお、救い主として働きかけてくださることは、人の思いでは捉えきれないことです。しかしルカはこの母と息子と共に、主イエスが私どもの救い主だという福音の喜びを伝えているのです。


 ルカが、あるやもめの息子が生きかえった話を記したとき、どのような思いで記したのでしょうか。主イエスに祈ると、いつでも生きかえらせてくださるという意味ではないのです。

 ルカは、特別な奇跡をただ記したのではなく、この話はルカの教会の物語としても伝えました。この地上の生涯を終えるときにも、主のとこしえの命に目覚めさせてくださると信じて記しているのです。ルカは、私どもの話として語りかけているのです。葬儀は必ず礼拝として執り行われます。そのことは、ひとり息子の葬儀を悲しみながら行っていた行列が、神をたたえる礼拝の行列に変えられたことと重なっているのです。


 主はこの世の最も深い悲しみに、なぐさめを与えることができるのです。誰も起き上がらせることができないところから、主は起き上がらせることができるのです。


 葬儀を執り行うとき、火葬の前に、棺に手をおいて祝福します。主イエスはこの若者にされたように、私どもの棺に手をおいて、「もう泣かなくともよい」と祝福してくださるのです。やがてのときにも、主イエスのとこしえの命に目覚めさせてくださるのです。

 主はいかなるときにも、信じる者を憐れみ、なぐさめてくださいます。主は限りない憐れみをもって、私どもの経験をご自分の体の一部のこととして受けとめ導いてくださる、なぐさめてくださることを信じていきましょう。



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