【復活前第4主日】
礼拝説教「ひと言の恵み」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書7:1-10
<讃美歌>
(21)25,57,516,65-2,29
先日、教区の中高生デイキャンプの案内が届いて、ようやく以前の集まりが少しずつ再開するようになってきたと感じました。再開を望んでいる集会は、教団関係でもあります。以前、軽井沢で教団主催の教会中高生大会があり引率者の一人として参加しました。西東京教区からは20数名、全体では200名のキャンプになりました。約100名の中高生が全国から集まって、約100名が引率スタッフという恵まれた集会でした。全国に17の教区があるのですが、北海道から沖縄まで、すべての教区から複数名以上参加がありました。このようなことは初めてだったようです。北海道から参加した利別教会のY君も、高井戸教会に前泊して、西東京のバスで一緒に行きました。Y君は、北海教区の子どもたちを招待しての交流キャンプに参加していたので、顔見知りで励まされました。
主題説教の中で、講師がこんな話をされたのを思い起こします。それは「恩おくり」ということです。英語で、pay it forwardと言うそうです。「恩返し」はよく知っているかも知れません。
神様の愛は、お返しする必要がないという話から「恩おくり」の話になりました。私のような者を赦して受け入れ愛してくださっている主なる神に、お返ししていきたいと思いますが、もともとその必要がないというのです。というのは、お返しをもともと主は期待しておられない。それが、神の愛だというのです。
主は恩返しを期待しておられないなら、それを、友達に、周りの人に返していく。それを恩おくりと呼ぶという話で、英語ではその言葉がちゃんとあることを知りました。
礼拝の営みを支えていくことは、私どもが神様から与えられた大切な使命です。私ども教会は、礼拝を献げて生きているのです。礼拝は、主イエスの福音を地域に伝えていくときです。そのことを通してまず地域に仕えている。この地にある人々のために祈っていく。祈りつつ福音を世に伝えることは、主イエスから受けた恩おくりではないでしょうか。
ルカは、福音書を記したときに、その思いは、主イエスから受けたとこしえの恵み(神の恩寵)に少しでも報いたい、お返ししたい思いがあったでしょう。しかし、主は、それを私どもに分け与えてくださいました。ルカもまた、恩おくりをしたということでしょう。恩おくりということでは、ルカは、テオフィロにある意味で恩おくりをしたようです。伝説では、かつての主人であったテオフィロは、奴隷のルカによって死にそうな病から助けてもらったそうです。ルカは医者でしたが、奴隷でした。当時はめずらしいことではなかったようです。テオフィロはその恩に感謝して、ルカを自由人にしてやった。そして、ルカは、テオフィロにその感謝の思いも込めて、この福音書を記したというのです。自分のような者が主の弟子になったのは思いがけないことであった。その思いは、この箇所にも響いているのです。ルカは、異邦人と呼ばれた人々の一人でした。
与えられた箇所で主イエスから、見事な信仰に生きているとほめられたのは、旧約聖書の伝統に生きてきたユダヤ人ではないのです。異邦人と呼ばれ、信仰のことが分かっていないと思われていた人々のひとりでした。しかし彼は、百人隊長であって、ローマ帝国に仕えていたのですが、ローマに支配されていたユダヤ人の信仰生活を大切にしていたようです。彼は会堂(礼拝堂)を建てるため尽力したりして、ユダヤ人からも信頼されていたのですが、彼の部下が死にそうであった。単なる部下ではなく、自分の息子のように思っていたかもしれません。彼はそのような危機的な場面で、信仰を抱く恵みに生きることができたのです。
主イエスに助けを求めることができました。私どもは、まず祈って主に助けを求めているでしょうか。
この父は、自分は主の助け、救いを受けるにふさわしいと思っていなかったようです。主イエスに来ていただくほどの者ではない、ただ御言葉をください、と願いました。自分には、しもべがいて、行けといえば行くし、来なさいと言えば来る。主イエスが命に関わるそのような権威を持っておられる主であることを、この父は告白したのです。
主イエスは、みごとな信仰として喜ばれました。私どもは、このようなみごとな信仰に生きた人の話を聞くと、自分と比べて、自分はまだそんな域には達していないと思ってしまうかもしれません。しかし問題なのは、自分のことを考えるときに、自分がもっている力や能力のことしか考えていないかもしれないことです。主の恵みの働きかけを忘れているのです。主は私どもに働きかけて、この父と同じような、御言葉をください、と祈り求めていく恵みに生かそうとなさっています。ルカはその恵みを、喜びをもって伝えているのです。
先ほどお話しした中高生大会で、ルターの言葉が紹介されました。
「罪人は、愛されているから美しいのであって、
美しいから愛されているのではない。」(ハイデルベルク討論)
ルターの言葉によって、こんなことを思いました。主が、恵みにより働きかけてくださるから私どもに信仰が与えられるのであって、私どもに元々十分な信仰があるから働いてくださるのではないということです。
私どもは主の恵みを信じて、祈り求めていくことが赦されているのです。
先ほどお話しした百人隊長は、みごとな信仰をほめられたときに、それを自分への賞賛にはしなかったはずです。彼は、直接か間接か分かりませんが、主イエスの御言葉に触れてきたはずです。私どもが礼拝の恵みに生きているのと同じです。その中で、主よ、御言葉をください、という信仰に生きるようになったのです。みごとな信仰とほめられても、主よ、それはあなたが働いてくださったことです、と主をたたえたはずです。私どももまた、主に向かって、御言葉をください、と祈りつつ生きているなら、それは、考えてみれば、みごとな信仰です。直接お会いしないで御言葉を求めているからです。主の恵みのお働きによる奇跡を生きているのです。
6章20節で主イエスが説教された言葉の冒頭は、「貧しい人は幸いである」という御言葉でした。「貧しい人」は、アーナウという旧約聖書の意味合いを持っています。アーナウは、経済的な貧しさも含んでいますが、むしろ苦難の人と訳することができますし、主にその必要を満たしていただく人のことです。自分の力で救いに至ることができないと知って主により頼む人です。「貧しい人は幸いである」という言葉は、主イエスの説教全体を総括したような御言葉です。その説教が6章の終わりまで続いて、この箇所が記されているのですが、「貧しい人は幸いである」という主の御言葉の響きがこの箇所にもあるのです。
私ども白鷺教会も、主にその必要を満たしていただく者たち、自分の力で救いに至ることができないと知って主により頼む者たちではないでしょうか。
先ほど、新約聖書の言葉を取り上げて、それが旧約聖書の言葉の意味合いを受け継いでいると言いました。特に、主イエスの御言葉を思いますとそのことがよく分かります。どういうことかと言いますと、旧約聖書で神様の言葉(ダバール)は、出来事とか行為という意味があります。これは日本語では決してない意味合いです。神様の言葉は、その御言葉の通りに出来事を生み出すので、言葉であり行為であるのです。
ですから、御言葉を求めて生きることは、主の御言葉の出来事が起こることを信じて祈り求めていくことです。
私どものそれぞれの必要のため、教会の必要のため、地域や時代の必要のために、心を注いで祈り求めていくことを主は受け入れてくださいます。
主よ、どうか助けてください。そして、御言葉をください、と主を信じて祈り求めてまいりましょう。主の御言葉の出来事があることを信じて、祈り求めていきましょう。
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