【降誕節第7主日】
礼拝説教「魂の安息」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書6:1-11
<讃美歌>
(21)26,2,56,476,64,27
私どもは、日曜日の礼拝を聖日礼拝と呼んでいます。聖日というのは、普段の日とは違って神様のために取り置いて、礼拝の日としているのです。
なぜ日曜日に礼拝を献げるかというと、主イエス・キリストが、日曜日の朝、復活されたからです。ですから日曜日を主の日、主日とも呼びます。キリスト教会は主の日を聖日として、約2000年礼拝を献げてきたのです。
主日のことを安息日とも呼びます。今日の箇所に「人の子は安息日の主である。」(5)という主イエスの御言葉がありますが、そこから主日と呼ぶようになったとも言われます。
いずれにしても主日は、安息日として心から安息する日です。
しかし何もしないということではない。むしろ、礼拝を共に献げることによって心から安息するのです。
今日の箇所で、安息日をめぐって論争が起こっています。どんな議論があったか、今日の箇所を朗読して、おわかりになると思います。安息日には、働かない掟があったのですが、癒やすこともその中に含まれていたようです。しかし、主イエスはその掟によって癒やすこともしないのは、行きすぎであることを示されたのでしょう、右手が不自由な人を癒やされました。主イエスのお考えと、ファリサイ派の人たちの考えの違いによって論争が起こりました。
十戒の中に、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(出エジプト20:8)とあります。聖別というのは、特別に取り置くということです。この御言葉に従う意味で、私どもも礼拝を献げる日としているのです。
しかし当時安息日には、付け加えられた様々な掟がありました。例えば、どれぐらいの歩数を歩いていいかというものです。万歩計はないので、どうやって歩数を守れるのかと思いますが、おそらくは、礼拝堂を家から往復する以外に、どこかの町に遊びに行ったりすることはできない歩数だったでしょう。こんな話を聞いたことがあります。ある大先輩の牧師が、相談を受けたそうです。洗礼を受けて、喜んで礼拝生活を過ごしておられた女性が、お連れ合いから不満を言われた、それは、かつては二人で日曜日は山登りに行っていたのに、それができなくなって寂しいというものです。その牧師は、たまにはいっしょに出かけるように勧めたというのです。女性は、いいんですか、と驚いたようですが、やがて、二人で礼拝に来られるようになって、お連れ合いも洗礼を受けられたそうです。
安息日の決まり事では、料理を禁じられたので前日に二日分つくる必要がありました。家の中のことを誰が分かるのかと思いましたが、料理をすると煙突から煙が出ますので、それを見張る係もいたそうです。いろんな決めごとがあったようですが、そのような掟を守ることは可能でした。しかしそこには守っている自分を差しだして神様からの報いを受けようとする問題があったのです。何が問題かというと、罪を赦して招いてくださる神の恵みを無にしてしまうからです。
あるいは、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」という神の御言葉を、人の決まり事にすり替えてしまうことでもありました。きわめて罪深いことです。主をたたえ礼拝を献げて安息する、礼拝の心が失われることがあるからです。そのような安息日の姿に主イエスは切り込んでいかれたのです。私どもも、主をたたえ礼拝を献げて安息する、礼拝の心を忘れてはならないのです。
よく考えてみれば、安息日のとらえ方の違いはあっても、ひとりの人が癒やされて、手が自由に使えるようになったのですから、ファリサイ派の者たちも喜んでもいいのではと思います。喜べないファリサイ派の者たちの立場からすれば、なぜ癒やすことができるなら、わざわざ安息日なのかという思いだったでしょう。その思い以上に、彼らが築いてきたものが崩されてしまうことから、「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。」(11)それは、殺意を抱いたことだと考えられます。
しかし主イエスはすでに、十字架に命をお献げになる覚悟をもっておられました。安息日の守り方においても深い罪を見抜かれて、御自身が命をお献げになることなくして、安息日を主の日として取り戻すことができないことを知っておられたのです。
私どもが、安息日を礼拝をはじまりとして過ごすことができるのは、主の尊い命の献げものがあったからだということを忘れてはならないのです。
さて、弟子たちが他人の麦畑の中で、穂をつんで手でもんで食べたことについて、それ自体がよくないことではないかと思われたかもしれません。しかし、こんな旧約聖書の教えに人々は従っていました。「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」(申命記23:26)ぶどう畑に入ったときも、かごを持って行って持ち帰るのは禁じられていたが、その場でぶどうを食べてもよかった。おそらく、飢えた人への配慮だったと思います。
ファリサイ派も、申命記の言葉をよく知っていました。しかし彼らは、安息日に禁じられている、働くことに相当するのではないかと問いました。当時の人々は麦畑で穂を摘むことを、安息日にはしなかったのでしょう。
それに対して主イエスは、ダビデ王の例を出されました。ダビデ王もその僕たちも飢えた時に、決まり事を超えて、当時祭司だけが食べることがゆるされた供えのパンを食べたという話です。主イエスはダビデ王にまさる、まことの王です。そのことをルカもよく理解してここに記しているはずです。主イエスは、恵みをもって治めてくださる王です。神の愛によって導いてくださる、まことの王です。
主イエスはまことの王として、私どもに安息をお与えになるのです。当時の者たちが守っていた掟にも、それが本当に御心にかなっているのか照らしていかれたのです。
また安息日には、医者は緊急の場合以外は治療しませんでした。しかし主イエスは、病の中にある者を見て、彼を呼び出してみんなの中に立たせ、すぐに癒やしていかれました。救いの恵みに入れようとなさった。癒やされることは、そして恵みに入れられるのは、安息日こそふさわしいのです。
主イエスが手の不自由な人を癒やされたのは、単なる癒やしではありません。主イエスが言われた、「立って、真ん中に出なさい。」(8)という言葉は、直訳すると「立ちなさい、そして真ん中に出なさい。」となり、「立ちなさい」とまず言われています。そして、この元の言葉は、癒やされた人が「身を起こして立った。」(8)の「立った」とは別の言葉が使われています。主イエスが「立ちなさい」と言われた言葉は、主イエスが十字架に命を献げられて、死から復活された時の、復活された、エゲイロー(立たせた)と同じ言葉です。ですから、手の萎えた人の癒やしは、主イエスの死と復活の先取りなのです。私どもの魂を癒やしてお救いくださることの先取りなのです。
私どもは安息日に、共に礼拝を献げ、神へと向き直っています。主イエスが招かれたように、この安息日に悔い改め、救いの恵みに入れられるのです。救いの恵みの中でさらに信仰を深めていくのです。
主イエスの御言葉により信仰を深めていくことこそ、心からの安息です。主イエスがまことの王として、愛により働きかけ、恵みをもって私どもに安息を与えてくださるのです。
マルティン・ルターは、「信仰とは私たちの内における神の働きである。」と言いました。私どもが主体的に心がけて礼拝に集い、信仰を抱いて礼拝を献げていることは、私どもの信仰がはじまりではないのです。神様の恵みによる働きがあるからこそ、私どもは礼拝に集い、信じる喜びを抱くようになったのです。
主イエスが恵みによって働きかけ、主の日、安息日に、私どもの内に信仰を与えて喜びに生かしてくださることを信じていきましょう。
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