【復活前第6主日】
礼拝説教「憐れみ深い神」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書6:27-36
<讃美歌>
(21)26,10,153,479,64,27
与えられています箇所は、「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。」(27)と主イエスが語りかけています。聞きもらすことができない「しかし」です。どういうことかと言いますと、主イエスは前の箇所で、「貧しい人々は、幸いである」(20)と弟子たちに語りかけられました。その「貧しい人」とは、経済的に貧しいことも含んでいますが、むしろ、神様の助けを必要として、主なる神に依り頼んでいる人のことです。そして主イエスは、そうではない人を「不幸である」と言われた。それに対して主イエスは、弟子たちが自分たちを正しい者たちの集団として、それ以外の者たちを裁いたり、敵対視するような思いを見ぬいて、語りかけておられるのです。私どもはどうでしょうか。自分を正しいところに置いて、人を裁くようなことはないでしょうか。
マルティン・ルターが、キリスト者のことを「罪を赦された罪人」と呼びました。ルターが言ったことは、主イエスが「貧しい人々は、幸いである」と言われたことと結びつきます。私どもは「貧しい人々は、幸いである」と言われた主イエスの祝福のもとに生きていく必要があります。
「貧しい人」の「まずしい」は、旧約聖書では、アーナウという言葉で、乏しい者、砕かれた者という意味です。それは、自らの必要を主に満たしていただく人のことです。罪の赦しこそは、人の魂が最も必要としているものではないでしょうか。
罪を赦された罪人しての祝福から外れることがないように、主イエス・キリストは、「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。」と愛をもって強く語りかけておられるのです。
「しかし・・・」のあと、主イエスは「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」(27・28)と言われます。
敵を愛しなさい、という主イエスの御言葉の前に、立ちすくむ思いがしますが、どのように受けとめたらいいのでしょうか。
マルティン・ルーサー・キング牧師の名前をお聞きになったことがある方も多いと思います。1963年の説教集の中に、「汝の敵を愛せよ」という説教があります。改めて読み返して見ました。その語りはじめはこうです。
「おそらくイエスの訓戒の中で『汝の敵を愛せよ』という命令に従うこと以上に難しいことはないであろう。」
キング牧師は、「なぜわれわれは自分の敵を愛すべきなのか。」と問いかけています。そしてその理由を語ります。
「第1の理由は全く明白である。憎しみに対して憎しみをもって報いることは、憎しみを増すのであり、すでに星のない夜になお深い暗黒を加えるからである。」
そして、憎しみが憎しみを生じ、戦争がさらに大きな戦争を生じるといった悪の連鎖が破られる必要があるという意味のことを語ります。確かに、悪の連鎖に生きている人の現実を主が嘆き、そこから外へ出るように導いておられるのです。
さらに、
「なぜわれわれが自分の敵を愛さねばならないかというもう一つの理由は、憎しみが魂に傷あとを残し、人格をゆがめるということにある。」私どもが憎しみに生きて、敵が不幸になることを願って生きることは、自分自身をゆがめ、さらに傷つけていくことになるというのです。
「なぜわれわれが自分の敵を愛すべきかという第3の理由は、愛は敵を友に変えることのできる唯一の力だということにある。」と語りつぎ、リンカーン大統領の例をあげます。
「リンカーンは、愛を努め、歴史にすばらしい和解のドラマを残した。」リンカーンが大統領選の選挙運動をしていたとき、有力候補のひとりがスタントンという人でした。彼は、リンカーンを憎しみに満ちて、あらゆる点でリンカーンに非難を浴びせたのです。
しかしリンカーンが大統領に選ばれたとき、彼はその最も重要なポストのひとつに何とスタントンを指名したのです。もちろん周りの仲間は猛反対するのですが、リンカーンはそのポストに最もふさわしいのはスタントンだとしたのです。
やがてリンカーンが死んでその葬儀が行われたとき、スタントンは「自分がかつて憎んだ人間の死体の近くに立って、リンカーンがこれまで生まれた人間の中で最も偉大な人物のひとりだった」と述べたというのです。
マルティン・ルターは、かつて「神の義」について悩んでいました。「神の義」がよくわからなかったというのです。「神の義」がよくわからないと、「敵を愛しなさい」という主イエスの教えも十分に理解できません。「敵を愛しなさい」という主イエスの教えと「神の義」は、つながっているのです。
36節に「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」とあります。
父なる神が「憐れみ深い」ことと、「神の義」はつながっているのです。私どもが考える「義」は、正しさのみで、敵を裁き、ひたすら悪を退けていくイメージがあります。しかし「神の義」は、そこに敵をも愛する愛を生み出していくのです。
「福音には、神の義が啓示されています。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてある通りです。」(ローマ1:17)
ルターは、罪人である自分を主イエスの救いによって赦し、「正しい者」と見なしてくださる福音に、神の義があらわれていることを知るようになったのです。
神の義は、悪を悪と、正しいことを正しいとするだけでなく主イエスによって私どもを受け入れてくださる憐れみをも示しているのです。
主は、敵である私どもを愛してくださったのです。罪人は神に敵対する者で、神の御心に適っていない者ですから、それは神の敵と言ってもいいのです。
「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の死によって救われるのはなおさらです。」(ローマ5:10)
主イエスは「敵を愛しなさい」と命じられました。そしてその御言葉の通りに生きられたのは、主イエス・キリストです。敵である私どものためにも、主は命を捨てて愛してくださったのです。そこに、救いの道がひらかれました。そこに神の憐れみがあるのです。
主なる神が、敵をも愛する、愛なるお方であることを心に刻んでいきましょう。主の愛の働きによってどうか私どもを動かしてくださいと祈り求めていきましょう。
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