【降誕節第9主日】
礼拝説教「幸いの中身」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書6:20-26
<讃美歌>
(21)26,19,497,495,64,27
与えられています箇所は、主イエスが「弟子たちを見て言われた。」(20)とあります。このように語りかけられました。
「貧しい人々は幸いである。
神の国はあなたがたのものである。」(20)
主イエスは神の愛により、思いを込めて説教されました。弟子たちに言われた、ということは主イエスが教会に語りかけられたと信じていくことができるのです。ルカは主イエスの愛が私どもにも注がされていることを信じて記しています。ごいっしょに主イエスの御言葉に思いを深めましょう。
「貧しい人々は幸いである。
神の国はあなたがたのものである。」と、私どもが日本語で聞くときに、果たして主イエスが語りかけられた御言葉が御言葉として響くだろうかと思います。
どういうことかと言いますと、「貧しい人々」というのは、日本語では文字通りには経済的に貧しい人々と聞こえます。しかし、主イエスがここで愛をもって語りかけておられるその思いに触れるには、旧約聖書の背景をお話しする必要があります。
詩編には「貧しい人」という言葉がたびたび記されています。たとえば、9編13節には、「主は・・・貧しい人の叫びをお忘れになることはない。」とあります。しかし、「貧しい人」(ヘブライ語でアーナウ)は、砕かれた者、苦しむ人、という意味でもあります。経済的に貧しいという意味だけではないのです。
ルカの6章20節で「貧しい人」(プトーコス)という言葉は、主イエスが4章18節で語りかけられた御言葉にもあります。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために」この御言葉は、イザヤ書の61章1節を朗読して、イザヤ書の預言がご自身によって成就したと言われたのです。ですから、この6章で主イエスが「貧しい人」と言われたのは、明らかにイザヤ書(旧約聖書)の意味「アーナウ」で語っておられます。
ギリシャ語の辞書(岩隈)によれば「旧約聖書の用法で、物質的に貧しいだけでなくこの世で圧迫され失望し神の助けを必要としこれにより頼んでいる人」とあります。ですから、ここで「貧しい人々は幸いである。」と主イエスが語られた「貧しい人」とは、自分では救うことができないということを知っている者、そして、主なる神に助け(救い)を求めて依り頼む者のことです。
繰り返しになりますが、主イエスがここで「貧しい人々は幸いである」と説教された時、旧約聖書にある「貧しい人」の意味で語られたのです。もちろん経済的な意味がなくなっているわけではありません。
ある英語の訳(New English Bible)は、「貧しい人々」(新共同訳)と訳されている言葉を、「Who are in need」と訳しています。直訳すれば、必要の中にある人、ですが、主なる神に満たしていただく必要を知って祈り求める人と理解できます。
また主イエスが「貧しい人々は幸いである」と言われたことは、旧約聖書のシャロームとの関係で理解することができます。シャロームは、平安と訳されたりしますが、主なる神が私どもの必要をあらゆる面で満たしてくださるその中身がシャロームです。体の必要、心の必要、社会的な面での必要もそうです。私どもは、心も体も社会的な生活の面でも、欠けがあり、主に助けられ満たしていただく必要がありますが、そのことを知って主のシャロームを祈り求める人が、貧しい人ということです。
さて、「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。」というのは、主イエスの説教の最初の一文ですが、これは全体を総括しているような御言葉でもあるのです。むしろ、この御言葉をしっかりと理解することができたら、ルカによる福音書全地の理解にも広がるのです。ですから、なお立ち止まって思いを深めていきましょう。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。」
「神の国」とは、どこかに地上の国家をつくることではありません。「神の国」とは、主が恵みをもって支配されるところのことです。支配という言葉は、この世的な支配を思い浮かべてしまいますから、導いてくださると言った方がいいかもしれません。主が恵みをもって導いてくださるところが「神の国」です。導いてくださるとは、具体的にどういうことでしょうか。 ルカはここまで「神の国」の恵みを伝えてきました。それは救いの恵みと言っていいのですが、1章77節に「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」とあるとおりです。主は「罪の赦しによる救い」によって導いてくださるのです。そこに幸いがあります。
ですから、「罪の赦しによる救い」と「貧しい人々は幸いである」という御言葉はまったくひとつです。
自らの罪を告白して、主イエス・キリストによる救いを信じて受け入れる人は、まさに主にその必要を満たしていただく「貧しい人」であります。
ルカがこの福音書を書いた時には、すでに主イエスは救いの道をひらいておられました。十字架に命を献げられ、死からよみがえられて天に帰られていたのです。
ですから、「貧しい人々」は、自らの力で救いに至る者ではなく、主イエスが私どもの「罪の赦しによる救い」のために、十字架に命を献げて、私どもの審きをその身に受けてくださったことを信じていく人々です。恵みの導きを信じて礼拝を献げて祈る人々のことであります。
先ほど、旧約聖書の「貧しい人」(アーナウ)には、心砕かれた人、という意味もあると言いました。ルカは、主イエス・キリストを救い主と信じて、心砕かれて礼拝を献げる者たちへの祝福として記したのです。
「貧しい人々は幸いである。
神の国はあなたがたのものである。」
最後になりますが、元々の語順では、「幸いである、貧しい人々は」となります。
主イエスは、御自身の救いを信じて礼拝する者たちを今もなお、「幸いである」と祝福してくださるのです。主は、わたしの助けを受けとるようにと、すべての人を招いてくださっているのです。
その主イエスの招きと祝福を受けるところにとどまるところに幸いがあります。私どもは神の助けを必要とする「貧しい人々」として、とどまり続けていきましょう。そして、ひとりでも多くの方がいっしょに神の助けを受けとるように、主と共に招いてまいりましょう。
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