【降誕節第8主日】
礼拝説教「祈りは呼吸」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書6:12-19
<讃美歌>
(21)26,19,497,495,64,27
主イエスは夜通し祈られて、十二人の弟子を選ばれました。名前を聞くと、その働きを思い起こすような、ペトロやヨハネといった弟子もいます。あるいは、十二弟子の名前で知るだけで、どんな働きをしたか、聖書に記されていない弟子もいます。その意味では、十二弟子のことを英雄列伝のように福音書は記さなかったのです。それどころか、失敗や不信仰を隠さずに書きました。それは、彼らが私どもの一人のような弟子であることを分かっていたのです。主は、私どもの代表のような弟子のひとりひとりを選ばれました。そのことは、ルカたちの教会にとって、大きな慰めとなっていたのです。ペトロたちを選ばれたことは、私どもにとっても大きな慰めです。
しかし、イスカリオテのユダのことを、ルカはどのように受けとめて書いたのでしょうか。主イエスでさえも、ユダの裏切りを見抜けなかったと思っていたのでしょうか。決してそうではないはずです。すべてをご存じである主が、ユダを選ばれたということは、裏切る可能性のある者をも愛していかれたということではないでしょうか。そのような欠けをもつ者をも主は招き、愛して、恵みに生かそうとなさった、それほどに主の愛は深く、広いことを信じて、ルカは記したと思います。私のような者も、主に受け入れられる、あなたも招かれている、と信じて、ルカは福音書を書いたのです。
もちろん、主を裏切り悲しませることは大きな罪であり、それを避けることができるように、主イエスは祈られたはずです。ユダ以外の弟子たちも、主イエスの十字架を目前にして主を捨てて逃げ去りました。そのことを分かった上で、主イエスは祈り抜かれました。その祈りがあったからこそ、弟子たちは立ち直ることができました。夜通し祈られた主イエスの祈りは、すでに命をお献げになった祈りです。弟子たちのために、罪の裁きを身に受ける、備えの祈りでもありました。尊い主イエスの祈りがあるからこそ、キリスト教会の今があるのです。
そのような、尊い主イエスの祈りは、なお続いているのです。私どもの祈りは、主イエス・キリストの祈りによって支えられているのです。
「だれが、わたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために取り成してくださるのです。」(ローマ8:34)
さて、祈りが呼吸にたとえられることがあります。呼吸しないと生きることができません。同じように、祈ることは信仰生活にとって欠かせないものです。
「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」(12)とあります。十二弟子を選ばれた時だけではなく、主イエスはよく祈られました。絶えず祈られた、祈りの呼吸をされていたと言った方がいいかもしれません。父なる神に向かって、また父と共に祈られたのです。
こんなことを考えます。主イエス・キリストは神の独り子であって、父なる神と主イエスは互いに父と子として、神の御心を知り抜いておられたはずです。神の御心を心として、主イエスが生きておられたとすれば、もはや祈る必要がないと私どもは考えてしまうかもしれません。
しかし祈ることは、父なる神との命の交わりに生きること、呼吸です。主イエス・キリストは救い主として、私どもと全く同じひとりの人となって生きてくださいました。私どものひとりとして、祈る喜び、感謝をもって祈りに生きる恵みを示してくださったのです。私どもは主イエスが示してくださった恵みの道に生きるよう導かれています。祈りつつ生きる喜びに招かれているのです。祈りの中身が、願い事ばかりにならないよう心がけたいと思います。いたらなかったこと、罪を告白し、主に赦されたように赦すことができるように祈り、喜びに導かれて、感謝を忘れてはならないのです。
私どもは、私自身がそうですが、夜通し祈られた主イエスの姿に触れると、自らが祈ることにおいて、いかに乏しいか思い知らされます。主イエス・キリストだからそうできたのであって、私には関係ないということでは済まされない、私どもを照らす姿が、主イエスの祈りの姿にはあるのです。
しかし祈ることに乏しいと反省して、一生懸命に努力することには限りがあります。心がけたり努力することは大切なことですが、私どもが自分の力でしていると思う努力や心がけにも、隠れたところで主が働いていてくださることを信じる必要があります。なぜなら、主が働いてくださらなければ、祈りの乏しさを感じる思いもおこらないのです。主は聖霊の助けにより御言葉によって働きかけてくださるのです。祈りにおいても働きかけてくださる、隠れた主の働きを信じていきましょう。
先ほど、祈りは呼吸だと言いました。ふだん呼吸していることは意識していないのではないでしょうか。祈りも呼吸であるとすれば、自然に祈ることができる恵みが備えられているのです。
肉体の呼吸が、自然に呼吸できる命があるからそうできるように、祈りも、祈ることができる信仰の命、救いが与えられているので祈ることができるのです。
私どもの信仰は恵みによって、主から賜ったものです。ルターが、「信仰とは、私たちの内における神の働きである。」と言いましたが、その通りで、信仰の源は主なる神にあるのです。主が聖霊の働きにより聖書の御言葉をもって信仰を私どもに授けてくださったのです。信仰は、単なる考え方や信じる思いではなく、救いの命を賜ったということです。救いの命を、神様が働きかけて支えてくださるから、私どもは信仰生活を生きて、祈ることができるのです。
主イエス・キリストが恵みをもって働きかけ、私どもに賜った救いの命が生きるので、その救いの命の呼吸である祈りも支えられるのです。私どもの祈りの息の源は、主イエスにあります。
祈りの息がしっかりとできるように、私どもは主イエスと共に祈ることができるのです。むしろ、私どもの祈りに、主イエスが御自身の祈りの息を吹き込んで共に祈ってくださるのです。
主イエスと共に祈るというのは、天において私どものために祈り執りなしてくださる主イエスと共に祈ることです。
私どもの祈りに先立って、主イエスは祈っていてくださいます。また、私どもが十分に祈ることができないとしても、私どもに代わって祈ってくださるのです。
そのような主イエスの祈りを信じていきましょう。主イエス・キリストは、私どもが深く呼吸して生きることができるように、私どもに祈りの呼吸をさせてくださるのです。喜びと感謝の息をして、共に生きていきましょう。
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