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2023年1月8日(日)成人祝福

【降誕節第3主日】

 

礼拝説教「こぎ出してみる」

 願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書5:1-11


<讃美歌>

(21)26,15,130,463,64,29


 私どもは主イエスのもとに行くとしたら、どのような願いをもって行くでしょうか。

 主イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、群衆が押し寄せてきました。ゲネサレト湖と言うのは、ガリラヤ湖の別名です。群衆が押し寄せてきたのは、「神の言葉を聞こうとして」(1)だったとあります。彼らは、神の言葉に飢え渇いていたのです。私どもはどうでしょうか。

 主イエスはご自身のもとに集まった会衆の魂の飢え渇きに、応えてくださいました。どのようにしてかというと、岸から少し離れたところから群衆に神の言葉を語りかけられたのです。何を語られたかは、書かれていません。しかし、直前の4章43節に「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。」とあるように、福音を語りかけられました。具体的には、この5章でレビを弟子にしたとき、周りにいた者たちに「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を悔い改めさせるためである。」(32)と言われた、同じ福音を語りかけられたはずです。人々の反応は書かれていませんが、それは主イエスがやがて福音を人々に語りかける使命を弟子たちにゆだねようとしていたからだと思います。


 さて、主イエスは人々が岸辺にいるご自身のもとに押し寄せてきたときに、漁を終えて帰ってきた二そうの舟をご覧になりました。そのうちのひとつ、シモンの舟に乗られました。やがて主イエスからペトロ(岩という意味)と名付けられて、弟子の代表のようになったシモンです。

 主イエスはシモンを導いていかれました。主イエスがシモンに向けられた思いと眼差しは、私どもにも与えられているのです。このときシモンは、「神の言葉を聞こうとして」いたわけではなかったのです。


 シモンは夜通し漁をしても何もとれず、落胆し疲労していたはずです。漁の後始末はしなくてはいけないので網を洗っていた。そのようなときに、主イエスが舟を出してほしいと頼まれたのです。普通に考えれば迷惑な話です。しかしシモンは断ることができなかった。主イエスがシモンをすでに恵みの内にとらえておられたからです。いやいや舟を出したとしても、シモンは主イエスの言葉を間近で聞いていたのです。それこそ、主イエスがなさりたかったことかもしれません。

 主イエスが話し終えられると、シモンはさらに思いがけない言葉を聞きます。主イエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4)と言われたのです。私どもならどうするでしょうか。

 シモンはゲネサレト湖(あるいはガリラヤ湖)の漁師です。漁の時季と時間、場所も熟知していたはずです。そのシモンが夜通し漁をしても何もとれなかったのです。しかしシモンは、恵みにとらえられて、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5)と答えることができました。シモンもまた、神の言葉を聞くことができたのです。そして従うことができた。自分をあずけていく恵みに生かされていったのです。


 結果、一そうの舟では引き上げられない魚がとれました。もう一そうの舟を呼んで二そうの舟は沈みそうになるほど魚でいっぱいになりました。とても引き上げられないものを、主から受けたのです。

 不思議なことに、ここだけルカは、シモン・ペトロと「ペトロ」の名を付しています。そしてそのとき、シモン・ペトロは大喜びしたのではないのです。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と告白しました。私どもだったらどうでしょうか。シモン・ペトロたちが目先のおびただしい魚に喜ぶことよりも、自分たちの心を照らされて罪深い者と告白したことに、心を打たれます。それは、主なる神に心を照らされた姿でもあるのです。

 

 主なる神に出会うときに、とても自分はお会いして恵みを受けるにはふさわしくないことを教えられて、心を照らされます。主イエスの恵みの導きに、シモンは耐えられなかったのです。畏れを抱いたのです。私どもも、主の御前に、畏れ敬う心を失ってはならないのです。

 

 このペトロたちが主イエスに導かれた話は、大切なことを教えています。人がその経験と知恵を尽くして働いたけれども何の成果もなかった。その同じところをたどるように、主が働きかけると、引き上げられない恵みを受けたということです。

 恵みは、私どもの側にそれを受けるふさわしさがないにもかかわらず、主が与えてくださるものです。主イエスの救い、罪の赦しがまさにそうです。また信仰生活の日々の歩みは、主の恵みに支えられ、恵みなしには成り立たないのです。

 新しい年になりました。私どもは、何を求めて主イエス・キリストのもとに来るでしょうか。何を願って礼拝に集うでしょうか。

 ペトロたちが経験したことは、主イエスによって与えられる救いを示しているのです。救いは、主イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受け、信仰を告白して、礼拝生活を共に過ごしていくことです。

 私もが経験しています信仰生活は、夜通し漁をしても何もとれなかったシモンたちが、引き上げられないものを与えられたことと重なっていくのです。

 大切なことは、大喜びする前に、主を畏れ敬うことです。

 「罪深い者なのです」と告白したシモン・ペトロに、主イエスは「恐れることはない」と語りかけられました。これは罪の赦しの恵みに生かして、「恐れることはない」と神の言葉を語られたのです。

 

 私どもにも主は「恐れることはない」と祝福してくださいます。「あなたは人間をとる漁師になる。」と、福音伝道の使命を与えてくださるのです。

 恵みにとらえられたシモンたちは、人々が恵みにとらえられて救いに生きるよう、主の働きを担う弟子となっていきました。シモン・ペトロは、主の恵みの深みにこぎ出す生涯を歩んでいったのです。教会の恵みの歩みがここにあるのです。主は「恐れることはない」と、主の働きに私どもを用いる恵みに生かしてくださるのです。主の働きは、福音を語りかけて、人々を救いに導くことです。

 新しい年、こぎ出すよう、主イエスが私どもを招いてくださっています。こぎ出した先に何があるかは、主にゆだねていくのです。教会は舟にたとえられることがありますが、主イエスが共に乗っていてくださる舟です。小さくとも、沈まない舟です。「恐れることはない」こぎ出そうと語りかけてくださる主イエスを信じていきましょう。礼拝堂を舟にたとえるなら、ごいっしょに主イエスのもとで神の言葉を聞き続け、この礼拝から福音を宣べ伝えていきましょう。



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