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shirasagichurch

2023年1月29日(日)

【降誕節第6主日】

 

礼拝説教「ふさわしい器」  

 願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書5:33-39


<讃美歌>

(21)26,9,54,441,64,29


  「人々はイエスに言った。」とありますが、どのような場面だったか、前後の関係でつながっていると読むのが自然です。直前には、レビが主イエスを囲んで喜びの食事会を開いたことが記されています。そのときファリサイ派の者たちが文句を言いました。なぜイエスはこんな人たちを受け入れて食事をするのか、それに対して主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(32)と言われました。私どもは、大切な主イエスの御言葉をしっかりと理解する必要があります。

 主イエスが言われた罪人というのは、神の赦しを必要とする人のことです。その意味ではすべての人が神様の前では、赦しを必要としているのではないでしょうか。主イエスによって罪を赦される救いを必要としているのです。聖書で、罪という言葉は、神様との関係がズレているという意味があります。それは、神様とつながっていないということです。

 レビとその仲間が主イエスに受け入れられて、喜んで食事をしている、その姿に主イエスは「罪人を招いて悔い改めさせる」ことが実現していると言われたことになります。

 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と語りかけられたときに、まわりにいた人々はわからなくなったのです。「悔い改め」と聞くと、人々は罪を悔いて断食することを思い浮かべたようです。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」(33)主イエスの弟子となったレビと仲間たちが、喜んで食事をしている姿が、悔い改めと結びつかなかったようです。

考えてみると、断食することは自分で悔い改めの行為として確認できますから分かりやすいでしょう。しかし、断食することで自ら満足して、神様の赦しを信じていく信仰がどこかへ置き去りにされるかもしれません。あるいは、断食自体を赦しの根拠にして、神様が赦してくださる恵みが、忘れられていくこともあるのです。問題は、断食をするかどうかではなくて、悔い改めとは何かということです。

 悔い改めるというのは、旧約聖書ではシューブという言葉が用いられていますが、方向転換するという意味です。神様へと向き直っていくこと、主イエスのもとに来ること自体が悔い改めということです。レビと仲間は主イエスのもとに来ました。その悔い改めから新しい歩み、罪から離れる歩みが始まるのです。

 礼拝は、神へと向き直る悔い改めの時だと言うことができます。その礼拝において、主の御言葉によって心を照らされて罪が示されていくのです。自らがどんなに人を赦して受け入れることができないか、神様に赦されたにもかかわらず人を赦すことができないか、そのことが示させるのは幸いなことです。主よ、赦すことができように助けてください、と祈ることができるからです。

 主イエスがこのように祈りなさい、と教えてくださった主の祈りを、思い起こします。主の祈りの中で「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈りますが、これは赦しましたから赦してください、という交換条件の意味ではありません。主イエスが教えられた元々の順番からすれば、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも赦します。」という祈りです。あえて「わたしたちも赦します」を前に持って来たのは、それほど赦すことが私どもには難しいからかもしれません。

 あるいは、赦すことができないときには、「わたしたちも赦します」と祈ることができないと思われるかもしれません。正直だと思います。ヨーロッパのある教会で、戦争で大国に攻め込まれて大きな犠牲が生まれたときに、「わたしたちも赦します」というところで、皆が言葉に詰まって沈黙したというのです。しかし、しばらくの沈黙の後、また「わたしたちも赦します」と祈ったそうです。主が導いてくださることにゆだねたのです。

 ある神学者は、赦すことができないときにも「わたしたちも赦します」と祈ることは、赦すことができるように主が助けてくださることを祈っているのだと言いました。そのとおりだと思います。

 自分の力では人を赦すことができない私どもだからこそ、礼拝に集って主の祈りを祈り続けるのです。主の助けがどうしても必要なことを、御言葉によって示されていくことは喜びです。


 さて、ファリサイ派の者たちは、週に2度も断食していました。しかしそこに表れていた思いは、断食を神に差しだして受け入れてもらうというものです。断食が、神からの赦しを勝ち取る根拠となっていたことになります。自らの断食によって神に認めてもらおうとするのは、わかりやすいかもしれません。

 しかし主イエスは、そのような断食による悔い改めでは、救いに至らないことを示されたのです。主イエス自らが救いの道を切りひらき、そこへと恵みによって無償で招くのでなければ、誰も自分の力では救いを得ることができないのです。


 「花婿が奪い取られる時が来る」(35)というのは、主イエスの十字架のことです。主イエスが十字架に命を献げて、私どもに代わって神の審きを身に受けられました。それによって私どもは恵みにより罪を赦されて救いを与えられるようになったのです。

 断食や良い行いの積み重ねでは、到底救いには至らないのです。

 私どもは、恵みにより主イエス・キリストによって救われるのです。

 

 主イエスはさらに、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるようにと言われました。(38)一方で古い革袋とは何でしょうか。自分たちが積み上げてきたものやこれまでの経験は、古い革袋ということができるのではないでしょうか。古い革袋の中に、新しいぶどう酒を入れるとは、これまでの経験や積み上げてきたものをすべて否定するのではありません。しかし、私どもの積み上げたものそれ自体が救いに導くわけではないのです。断食もそうでしょう。

 主イエスは言われました。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」(38)

 新しいぶどう酒とは何でしょうか。それは主イエス・キリストの救いのことでしょう。あるいは、救いそのものである主イエス・キリストご自身のことだと言えるかもしれません。

 主イエスを宿す器が、新しい革袋と言われるのです。私どもは、新しい革袋でしょうか。主の教会は、主が用意してくださった、主イエスを宿す器、新しい革袋ではないでしょうか。私ども教会は、絶えず悔い改め、主に照らされながら生きて、新しい革袋となり続けているのです。

 自分の経験や積み上げてきたものに依り頼むのではなく、主イエスをこそ信じて従っていく恵みに生きていきましょう。



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