【降誕節第5主日】
礼拝説教「招かれている」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書5:27-32
<讃美歌>
(21)26,9,54,441,64,29
主は、礼拝において私どもを見てくださいます。ルカは、主が見てくださることは喜びであると記しています。
主イエスはレビという徴税人を「見て、『わたしに従いなさい』」(27)と招かれました。この「見て」という言葉は、じっと見つめられて、という意味です。主イエスは思いを込めてレビにじっと目をとめられた。それはレビを深く心におぼえられたということです。
主イエスのそのような心のこもった眼差しは、レビだけではなくルカにも向けられたと、喜びをもって福音書を記したのです。ルカは、主イエスの思いはあなたにも向けられている、あなたも主に招かれていると、福音の喜びを伝えているのです。
徴税人というのは、税を徴収する人ですが、ユダヤを支配しているローマ帝国への税を取り立てました。ですからユダヤ人からすれば、ローマの手下になって働いているので、憎まれていました。神から見捨てられている者たちと見なす者たちもいたのです。また不当に高額な税を取り立てている者もいたので、その豊かな暮らしのゆえに、恨まれていました。ユダヤ人が礼拝を献げる会堂に、徴税人を招く人はいなかったのではないか。
しかし主イエスは、徴税人であるレビをも招かれました。あなたも招かれている、あなたもわたしに従ってきなさい、と声をかけられました。収税所に座っているレビを見てそうされたのです。収税所に座るレビを見る主イエスの眼差しは、人々のそれとは全く違っていたわけです。
レビは驚いたでしょう。全く予期しない言葉だったはずです。しかし、これこそ自分が待っていた言葉だと心をとらえられたのではないか。レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28)のです。彼は主イエスの弟子になりました。徴税人をやめたのです。
もしかしたら、レビは初対面ではなかったかもしれません。主イエスがガリラヤ湖のほとりで説教されたときに、聞いていたかもしれません。あるいは、主イエスの教えを聞くために、ひそかにユダヤ人の礼拝場所である会堂に出入りしていたかもしれないのです。主イエスもまた、そのようなレビを深く御心に刻まれて、時至って御声をかけられたのではないか。
レビに御声をかけられた主は、レビのことだけでなく私どものすべてをご存じです。自分のことをすべてご存じだと思うと、主の御心を悲しませる思いや言動を思い出しますので、「主よ、おゆるしください」と祈らざるを得ません。しかしまた、自分ではじっと見つめられない罪深さや困難を私以上にご存じで、主の御心にとめてくださっていることは大きな慰めです。主よ、どうかあなたが働いて道を切り開いてください、と祈るのです。
レビは喜びに満たされて大勢の人を招きます。徴税人やほかの人たちです。おそらくは「私のような者が主に招かれたのだから、あなたもどうか来るように。あなたも招かれている。」と彼の家に誘ったのではないか。伝えずにはおれない福音に生かされている喜びがあふれているのです。
喜びの席で、ファリサイ派の者たちは主イエスのなさることを受け入れることができませんでした。どうしてレビたちのような者を招かれて受け入れられるのかと。彼らの考えは、自分たちの積み上げてきた信仰生活によって、神に受け入れてもらおうとするものです。戒めを守ることによって救いに至ろうとするので、律法主義とも言われます。
福音書ではどちらかと言うと悪者扱いされていますが、当時の人々からは尊敬されていたのです。清貧で信仰深く、ひたすら戒律を守って品行方正だったからです。
しかし自分を正しいところにおいて、他人を裁く心に生きる点では私どもも身に覚えがあるのではないでしょうか。キリスト教会の中にも、人の罪深さ、弱さとして、ファイサイ派気質があるのです。ルカはこの記事を記しながら、当時、教会の中でファリサイ派気質と戦っていたのではないかと思います。
主イエスは、はっきりとお答えになっておられます。
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしがきたのは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(31)
神様がご覧になったら、すべての人は罪人です。主イエス・キリストはすべての人を招いておられるのです。私のような者は招かれる資格はない、と思う私ども一人一人を招いてくださるのです。
ルターは、キリスト者のことを罪赦された罪人と呼びました。マルティン・ルターのことを、宗教改革者と呼ぶことがあります。しかしルターは、宗教を改革する意識はなかったはずです。当時の教会がより神の御心に近づけられるように働きかけたに過ぎないのです。その意味では教会改革に用いられたのです。
ルターは、こんなことを当時の教会に問いかけました。
「私たちの主であり師であるイエス・キリストが「悔い改めなさい・・・」と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。」(徳善義和著、マルティン・ルター、リトン社、以下省略)背景には、「贖宥状」と呼ばれるものに、ルターが危機感を感じたことがあります。それは、主イエス・キリストを信じて罪を赦されて救われるのではなくて、贖宥状を買って、罪の赦しを得るような思い込みが広がっていたからです。こんな呼びかけで贖宥状は売られていました。「神のこの測り知ることのできない贈り物は、最も優れた恵みのひとつであって、これにより人間は神と和解し、煉獄のすべての罪は取り除かれる。」この呼びかけには、主イエス・キリストの救いはどこにもないのです。さらには、悔悛(悔い改め)も必要なくなる、というようなことまで言われていた。
教会が、ふさわしい姿であるようにと願ったルターは、全生涯を通しての悔い改めを主が望まれていると言いました。どこからその思いが出て来たかというと、聖書に立ち帰ったからだと言われます。福音書が告げていることは、主イエス・キリストの救いの招きを受け入れるようにということです。主イエスを救い主と信じて、主なる神に赦されて受け入れられる救いを受けとるようにとの招きがあるのです。
レビは、周りの人を招いて、主イエスを囲んで教えを受けました。その姿を受け継いでいるのは、礼拝です。あるいは、家庭での礼拝に周りの人を招く、家庭集会がそうだと思います。この礼拝から、主の招きが広がっていくように、祈りつとめましょう。
すべての人を招いておられる主は、すでに洗礼を受けている者も、全生涯、悔い改めつつ生きるように招かれているのです。悔い改めは、神へと向き直るという意味です。主イエスを信じて祈り礼拝を献げるところに、神への向き直りがあり、喜びが満たされていくことを信じていきましょう。
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