【降誕節第2主日】
礼拝説教「福音が広がる」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書4:38-44
<讃美歌>
(21)26,1,367,402,64,29
新年最初の礼拝を献げています。ここまで守り導いてくださった主が、さらに礼拝の恵みに生かしてくださるように祝福を祈ります。礼拝を献げている時が、私たちにとって何よりもその魂が養われる、健やかなときです。ここからすべての生活が始まるのです。
主イエスはある時、いつものように礼拝堂で御言葉を語っておられました。その時に、シモン・ペトロという弟子のしゅうとめがお休みでした。主イエスはお気づきになったと思いますが、礼拝の後、彼女をたずねられました。高い熱を出していたのです。
主イエスは、御言葉によって彼女を癒やされました。
するとペトロの母は、「一同をもてなした」とあります。
おそらく彼女は、いつもの礼拝の後のように、主イエスと弟子たちをもてなしたのだと思われます。高い熱が癒やされたこともうれしかったでしょうが、礼拝のあと、その恵みを持ち運ぶように来てくださった主イエスをもてなすことができることが、うれしかったはずです。ペトロの母も、礼拝の喜びに生きていたのです。
主イエスによって礼拝の喜びはさらに広がっていったのですが、この箇所に少し不思議なことが書かれています。
「日が暮れると」(40)「いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た」からです。どうしてでしょうか。
当時人々は、旧約聖書から受け継いだ一日の数え方で、一日は日没によって、新しい日になると捉えていました。ですから、安息日が明けた次の日になったので、連れて来たのです。安息日には、癒やすこともしなかった掟に従ったからです。もちろん、その掟は行き過ぎたものでした。主イエスは安息日にペトロの母を癒やされたのですが、人々は掟を破ることを恐れたのか、あるいは主イエスに当時の掟を破らせたくなかったのかもしれません。
いずれにしても主イエスは、「一人一人に手を置いていやされた」のです。今でも私たちは、礼拝に来て、主よどうかいやしてください、と祈ることができるのです。体の病気のことだけでなく、心病むときに、困難を抱えるときに、礼拝においてこそ、私たちは主に助けを求めて祈るのです。たとえ現実は変わらなかったとしても、主に助けを求めて祈ることが、礼拝の恵みです。
さて主イエスは「悪霊を戒めてものを言うことをお許しにならなかった」(41)とあります。
不思議なことに「お前は神の子だ」と悪霊が言っていること自体は間違いではありません。それなのに、なぜ悪霊に語ってはならないと言われたのでしょうか。
それは、主イエスは、悪霊によってご自身のことが伝えられることを望まれなかったということです。主イエスは弟子たちによって、そして私どもによって、主イエスが救い主、神の独り子であることを伝えてほしいと願われたのです。
こうして礼拝を献げていることは、主イエスを伝えていることでもあります。主イエスを救い主と信じて礼拝を献げていることは、私ども教会が、地域に福音を宣べ伝えていることです。これは教会にしかできないことです。地域に仕える教会の大きな使命です。
さらにもうひとつ不思議なことは、主イエスは引き留める人々を置いて、次の町へと行かれたことです。それもまた礼拝の喜びが広がっていくためでした。その町には、まだまだ困難を抱えた者や病気の者がいたでしょう。そのような人々をなくしてくことは主イエスにはできたかもしれません。しかしそれでは救いは実現しなかったのです。
困難がないこと、病気ではなくて健康であることが、救いそのものではないのです。ある牧師がこんな話をされました。不治の病が癒やされて主をたたえていることは確かにすばらしいが、もっと尊いのは、たとえ病が癒やされないままであっても主に信頼して委ねている信仰の姿だと。
救いは、主イエスによって罪ゆるされて、主イエスの命とつながって生きることです。主なる神の、とこしえの命とつながって生きることです。そのために主イエスは来られ、命を献げて救いの道をひらいてくださいました。
福音というのは、喜びのおとずれという意味です。この年も、喜びのおとずれが礼拝をはじまりとして宣べ伝えられ、広がっていくよう、祈りつとめてまいりましょう。
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