【降誕節第4主日】
礼拝説教「罪のゆるし」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書5:12-26
<讃美歌>
(21)26,3,51,481,64,29
聖書の御言葉を聞いていて、何か心に引っかかるようなところが時々あります。しかしむしろそこに、主イエスの恵みが示されていることがあります。ですから引っかかりをおぼえる箇所に、むしろ思いを深めたいと願います。
主イエスはあるとき、全身が重い皮膚病にかかった人に出会われました。当時そのような人は、家族と離れて町外れに暮らしていましたから、人々が近寄らない村里へ行かれたのではないかと思います。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(12)と願う人に、主イエスは手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ。」(13)と、いやされました。
主イエスはその人に、当時の習慣にならって、祭司に体を見せて病気が治ったことを確認してもらい、感謝の礼拝を献げるようにと命じられました。そのことによって彼は自分の家に戻ることができたのです。しかし主イエスは、その人に「だれにも話してはいけない」と厳しく言われました。どうしてなのかと、引っかかる思いを持たれた方もあるでしょう。
もし主イエスにいやされたこの人が、そのことを積極的に伝えたとしたらどうなるでしょうか。主イエスはいやす人として伝わったでしょうが、救い主としては伝わらなかったはずです。健康であることは幸いなことですが、病気が治ることそのものが救いではないのです。そのことは、中風の人がいやされた話しにもつながります。
もちろん教会では、主がいやしてくださることを求めて祈ります。そして、いやされた方もいます。しかし病気を抱えたまま、主をあがめ委ねている方もいます。病気ではあってもすこやかな人です。健康で主をあがめている方よりも、むしろ病や痛みを抱いたまま主にゆだねている方は、私どもの慰めとなっているのではないでしょうか。
いずれにしても私どもは、願いをたずさえて主のもとに来ることがゆるされています。時には必死な思いで祈ることもあるのです。
中風の人のいやしがそうです。友人たちが中風の人を寝かせたまま主イエスのもとに連れてきました。大勢の人に阻まれたので、屋根を壊して主イエスの前につり降ろしたのです。
その時主イエスは、「その人たちの信仰を見て『人よ、あなたの罪は赦された』」(20)と言われたのです。ここも、心に引っかかりを覚える箇所です。
一つは「その人たちの信仰を見て」という「その人たち」とは、普通に読むと中風の人を連れて来た友人たちになります。中風の人本人の信仰ではなくて、まわりの仲間の信仰によって主イエスが働かれることがあるのかという疑問が浮かびます。さらに「あなたの罪は赦された」というのは、救いが与えられたことです。いやしを求めてきたはずなのに、罪の赦しがまず与えられたのです。
結論から言えば、まわりの人の信仰によって、主イエスが救いを与えられるということはあるのです。教会では、幼児洗礼や病床洗礼を授けます。その洗礼では、本人の信仰というよりは、家族と教会の信仰によって洗礼を授けます。
幼児洗礼は、その子の親と教会の信仰によって授けます。病床洗礼は、ご本人が教会で求道生活を歩んでおられて病床に伏しておられる場合が多いですが、その時もご本人の意思確認が取れないときは、特別に家族と教会の信仰によって洗礼を授けることがあります。
さて、中風の人は、病を患う中、どのような思いに生きてきたのでしょうか。当時病気は罪を犯したからだと間違って思い込まれていました。ですから彼も、自らの病気は罪のためであると苦しんでいたかもしれないのです。あるいは病に苦しむゆえに失望して不信仰に生きていたかもしれません。
「あなたの罪は赦された」と聞いた時に驚いたでしょうが、すぐにこれこそ私が求めていたものだと信仰を与えられたのではないか。聞くべき主の御言葉を信仰をもって受け取ったはずです。
主は病気のいやしを求めてきた人に「あなたの罪は赦された」とまず救いを与えられたのは、病気のいやしよりもなくてならないものだからです。救いの恵みの中で、主イエスは「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と命じられました。この人は信仰をいただていやされ、家に帰りました。救いの恵みに生きる歩みがはじまったのです。「神を賛美しながら家に帰って行った」のです。(25)おそらく、神への賛美はその人の家に満ちたはずです。
最初に、心に引っかかる箇所に、むしろ恵みが示されていると言いました。主イエスの問いかけがそうです。主イエスは、「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」(23)と言われました。ある方は、「起きて歩け」と言って、そうならなかったら信頼を失うから、その方が言いにくいと思われるかもしれません。しかし、罪をゆるされた主イエスに対して、当時のユダヤ教の指導者たちが、神を冒瀆していると避難しました。神様しか、罪をゆるすことはできないのです。しかも、主イエス・キリストが、十字架において命を献げられ、私どもに代わって裁かれたので、罪をゆるされる救いが実現しました。ですから、命を献げる覚悟をもって、「あなたの罪は赦された」と語りかけられたのです。
そのような、私どもの救い主となってくださった主イエスを知り、信じて祈る喜びがあります。それは罪をゆるされて主に受け入れられる喜びです。主に受け入れられ、罪をゆるされなければ、救いを生きることができないことを心から信じているでしょうか。そのことは、全身重い皮膚病の人が、いやされなければ家族のもとに帰ることができなかったこと以上の話しです。屋根を壊して主イエスの前に連れてこられた中風の人が、いやされないと生きていけないと思っていた以上に、私どもは、罪をゆるされて神様に受け入れられることがどれほど喜ばしいことか、教えられ続けていきましょう。
そして、主に受け入れられる信仰の喜びは、自分のためだけに信じる喜びではないのです。中風の人の友人たちがそうであったように、周りにいる方のために、弱さを覚えている方のために、求道している方のために祈る喜びです。
愛する方のために、代わって祈る喜びが与えられているのです。
礼拝は、共に生きる方のためにも献げる喜びがあることを信じていきましょう。
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