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shirasagichurch

2023年12月3日(日)

更新日:2023年12月10日

待降節第1主日

 

礼拝説教「実がなるように」

 

  願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書 13:1-9


<讃美歌>

(21)26,19,241,396,65-1,29 


 ある災難について、その報告が主イエスにもたらされました。どのような災難だったのでしょうか。「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。」(1)とあります。当時、ピラトはユダヤの総督で、ローマ帝国から遣わされたユダヤの最高権力者と言えます。主イエスが十字架につけられたときも、最終的に判断を下す地位にいました。ピラトは当時、残虐な政治で名が知られていたようで、その強引さや残酷さのために、やがて失脚させられます。そのピラトが三度も、主イエスに対して、この人は死にあたる罪を何ら犯していないと言ったのは有名な話で、ルカによる福音書にも記されています。

 「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」とはどういうことでしょうか。主イエスはここで、エルサレムに近づいておられます。ガリラヤ人が、エルサレム神殿においてだったのでしょう、犠牲の動物のいけにえを献げて、主に罪の赦しを願う礼拝を執り行っていたのです。礼拝中は全く無防備です。そのようなときに、ピラトがやってきて、おそらくは部下を遣わしたのでしょうが、そのガリラヤ人を殺してしまったというのです。

 ガリラヤ人たちの中には、ローマ帝国に反旗を翻すグループがいたと言われます。しかしそれにしても、大きな災難です。礼拝中のことだとすれば、あまりにも残酷です。

 そのような災難のときに、よく因果応報的に考えられることがあります。何かの罰がくだったというようなものです。しかし、明らかに主イエス・キリストは、因果応報を否定しておられます。教会もまた主イエスのお考えに従ってきました。


 主イエスはまた、シロアムの塔が倒れた災難にふれておられます。シロアムというのは、シロアムの池がある、エルサレムの水源です。そこに水道の塔のようなものがあって、そこから各所へ水が引かれていたのかもしれません。

 その塔が倒れて死んだ人たちは、何か悪いことをしていたのかと考える人たちがいたと思われます。しかし主イエスは、因果応報を否定してこう言われた。

「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(5)もちろん、災難にあうことが滅びるということではありません。滅びるとは、神との関係が失われたままになることです。悔い改めは、聖書では神へと向き直ることです。主なる神とのつながりに生きて、主の聖なる命とつながっていなければ、私どもは滅びるしかないことを、主イエスは伝えられたのです。

 ルカがこの福音書で「罪の赦しによる救いを知らせる」(1:77)と記したように、すべての者は主イエスの救いを、すなわち神の赦しによる救いを必要としているのです。


 主イエスは悔い改めなければ滅びる、と語りかけておられるのですが、なぜ私どもが滅びることがないのか、人は歴史をこれまで重ねてこられたのか。主イエスはひとつのたとえを話されました。

 それは、実を結ばない、いちじくの木のたとえです。

 3年もの間、実を結ばなければ場所が無駄になるので、切られても当然ということになります。しかもこのいちじくは、ぶどう園に植えられているのです。本来植えられるべき場所ではなくて、あえて植えてもらっていることになります。その点では、私どもも、神様から守られ養われているのは、当然のことではなく、あえて恵みによってそうしていただいているのです。


 園丁は明らかに主イエスのことです。

「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘ってこやしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」(8、9)

 そのように、主イエスのとりなしがあるので、私どもはなおも恵みによって生かされるのです。「そのままにしておいてください」と守ってくださる主イエスがおられるので、私どもは滅びることなく生かされている。実を結ばないままではなく、もちろん主イエスは、神の愛に生きて、愛の実を結ぶように願っておられるのです。

 

 私どもは実を結んでいるでしょうか。園丁である主イエスが、木である私どもの周りを掘って、肥料を与えてくださるように働きかけてくださっていることに気づいているでしょうか。主イエスに守られ、罪赦されている恵みによって生きていることは、園丁である主イエスのお支えによって生きていることではないでしょうか。

 「もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言われた主イエスは、自ら十字架の上で、その尊い命を切り倒されてくださった。ですから、私どもは主イエスを信じて、安心して悔い改めつつ生きることができるのです。 


 今日から教会の暦では、アドベントと言って、クリスマスを待ち望み備える日々が始ります。私どもはアドベントにおいて、改めて主が園丁のように支えてくださっていることに、感謝の祈りをささげつつ過ごしていきましょう。園丁は実を結ばせるために、世話をしますが、主イエスが結ばせてくださる実は、何よりも愛の実であります。

 先日は、おいしいみかんをいただきました。実りをいただくことは喜びです。教会が愛の実を結んで、集う者たちが、その実を食べて神の愛を知り、喜びに生きることができるよう、祈り励んでいきましょう。




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