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2023年12月31日(日)

降誕節第1主日

 

礼拝説教「祝福があるように」


願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書 13:31-35


<讃美歌>

(21)26,12,280,390,65-1,29 


 今年最後の礼拝をささげていますが、この一年、ここまで導かれたことを主にささげたいと思います。主なる神様に守られた、具体的なことを思い返されている方もあるでしょう。気づいた、神様の助けだけではなくて、実は気づかないところでも、私どもは主に守られてここまで来たのではないでしょうか。あるいは、主なる神が思っておられることを、御心と呼ぶことがありますが、御心は広く深いので、気づいていない御心があります。聖書の言葉を通して、主の御心を知り続けているのが礼拝です。12月31日のこの朝も、主がどれほどに私どものことを深く御心にとめてくださっているか、主の愛を知るときとさせていただきましょう。


 この箇所で、ファイリサイ派の者たちが主イエスのもとに来て言っています。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」(31)否定的にとらえれば、この言葉を伝えて主イエスを脅し、追い出そうとしたと考えられます。あるいは好意的に、主イエスを守ろうとして「ここを立ち去ってください」と伝えたとも受けとめることもできます。そのいずれであっても、主イエスは深い御心を伝えておられます。

 

 主イエスはヘロデの殺意から逃れるようにという言葉に直接答えておられません。自らを守ることよりも、もっと大切なことを神の愛をもって語りかけておられます。

 めん鳥のたとえを話されました。

「めん鳥が雛を集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だがお前たちは応じようとしなかった。」(34)

 雛はめん鳥のもとで生きるものです。私どももまた、主なる神の翼のもとで守られ、主に導かれて生きる存在だと語りかけておられるのです。

 考えてみれば、雛には、親鳥のもとで生きるか、それとも自分ひとりで生きるかという選択はないのです。雛は親鳥の翼のもとで生きるから雛です。私どももまた、主なる神のもとでは、どこまでいっても雛のような存在ではないでしょうか。神様の守り、助けをどうしても必要としているのです。

 

 主イエスはファイリサイ派の者たちの言葉に直接答えておられません。しかし極めて大切なことを語っておられます。

 ファイリサイ派の者たちが仮に、好意的に主イエスに自己防衛として逃れてくださいと言ったとします。しかし主イエスは、逃れて自らを守ったり、逃れてくださいと言われて、だれかに守られるお方ではないのです。

 

 主イエスはめん鳥のように、私どもの親鳥として、雛である私どもをそのみ翼のかげに逃れさせ、命をささげて守り導くお方です。

 雛が親鳥のもとで養われ教えられて生きるように、私どもは主のもとで生きるのです。そのように主に守られて生きることは祝福です。その祝福を受けて生きるようにと、嘆くような切なる思いをもって語りかけておられるのです。

 

 主イエスは語られました。

「だがお前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。」(35)このような厳しい審きの言葉を聞くときに、私どもは戸惑います。どう受けとめたらいいのでしょうか。まず、こう語らざるを得なかった、主の御心を知るべきです。

 

 主イエス・キリストは、「見よ、お前たちの家は見捨てられる」と、私どもを審いて退けるために来てくださったのでしょうか。そうではないはずです。

 主イエスは語らざるを得なかった御言葉を自ら受け止めておられます。それは、愛をもって真実を語り、その言葉を引き受けておられるのです。

 具体的に、どう主イエスは自らの御言葉をその身に引き受けておられるのでしょうか。それは、自ら語られた神の審きをその身にお引き受けくださったのです。

 主イエス・キリストは、十字架の上でこう執りなしてくださいました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(23:34)

 自らの罪ゆえに見捨てられるべき私どものために、「お赦しください。」と父なる神に執りなしてくださる主イエスがおられるのです。その主イエスの赦しを受けて、神の祝福に生きるよう私どもはたえず招かれているのです。

 

 神の祝福への招き、主イエスの救いは、招きを拒む人の罪深さよりも、はるかに強く確かなものです。

 ですから「見捨てられる」と語られながら、その直後で、そのような者たちを招き入れ、やがて祝福へと至らせることを見据えておられるのです。

「お前たちが『主の名によって来られる方に祝福があるように』と言う時が来るまで」とあるとおりです。

 やがて、救いの完成、終末の完成が来ることを、主イエスはすでに主なる神として見据えておられました。主の時が来る、その主の時には、拒んでいた者たちさえも「主の名によって来られる方に祝福があるように」と主の祝福を受け取るというのです。「主の名によって来られる方に祝福があるように」とは、主イエス・キリストのことです。主は私どものひとりとして降誕、お生まれくださいました。そして、救いを完成するために再び来てくださる希望が確かに与えられています。主の希望に生きて、来る年も守られて生きることができるのです。

 

 先ほどお話したことですが、私どもが気づいた神様の助けだけではなくて、実は気づかないところでも、私どもは主に守られてここまで来たと言いました。そのように、親鳥である主のもとで、守られている「雛」として生きているのです。私どもは主なる神がごらんになれば、どこまでいっても「雛」ではないでしょうか。主のみ翼のもとで休み、養われるのは、礼拝から始まります。私どもは心から主を信頼し、主のみ翼を避けどころとして生きていきましょう。



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