【待降節第3主日】
礼拝説教「狭い戸口の先に」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書 13:22-30
<讃美歌>
(21)26,13,236,579,65-1,29
「狭い戸口から入るように努めなさい」と主イエスが語りかけておられます。主イエスが言われる、狭い戸口から入るというのはどういうことでしょうか。ご一緒に分かち合って懇談するにはいいテーマだと思います。安易な方ではなく、難しく思えても、より将来をを見据えて祈っていくことを考えます。
ルターのものとされる有名な言葉を思い起こします。「たとえ明日、世界の終わりの日であると知っていても、わたしは今日リンゴの苗木を植える。」とあります。実は、これはルターの言った言葉ではないことは、神学者たちの中では知られていることです。しかしルターの考えをよく言い表しているとも言われます。
信頼するルター研究の大家というべき、徳善先生が、よく似たルターの言葉を紹介してくださっています。2023年の1月に召されたそうです。
「人は、永遠に生きるかのごとくに、働くべきである。
しかし、この瞬間にも死ぬかのごとく、心しなければならない。」
そして、徳善先生は、この箇所の主イエスの言葉は、ルターの言葉が示す方向と同じであるというのです。それは、終末の希望、すなわち救いが完成に向かっている希望に生きて、主の救いの恵みに立ち続けることです。
この箇所で、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」という問いが、主イエスになされています。
これは明らかに、ファリサイ派的な考えから出た質問だというのです。自分のなした功績や努力によって自分を認め、救いを確かめようとする、ファイサイ派的な考えがあるというのです。
徳善先生は、この箇所の黙想の中で、ルターのローマ書序文(ルターがローマ書をドイツ語に訳した聖書の解説としてつけた序文)から、ルターの言葉を紹介しています。
「信仰は、わたしたちの内における神の働きである。」
信仰は、神の働きがその源にあるのであって、自分の力を出発点にしていないのです。
「この神の働きは、わたしたちを変え、わたしたちを神によって新しく生まれさせ、古いアダムを殺して、わたしたちを心、勇気、感覚、あらゆる力をもった別の人間とする。」
能動的、主体的な神の働きを受けて、人は全く受動的に身をゆだねるように救われ、つくりかえられていくのです。
しかしルターはこう続けます。
「信仰とは神の恵みに対する生きた、大胆な信頼であり、そのためには千度死んでもよいというほどの確信である。」
徳善先生はこれを「受動の能動である」とします。
私どもの主体性の中に、主は働きかけておられるのです。そのことを信じて、恵みに応答していくのです。
この箇所で主イエスは、きわめて厳しく警告しておられます。それは「信仰は自分の力で信じること」として、神の恵みの働きを無視したり、恵みから離れ去ったところに生きることがないようにです。
その意味では、厳しい言葉の中に、神の愛が語りかけられているのです。
私どもと主なる神を結びつけているのは、神の恵みであります。主イエスの救いは、ルターの言ったように、恵みのみ、信仰のみによるものです。
信仰のみ、と言うときに、その信仰は、私たちの内における神の働きによって与えられた信仰ですから、信仰のみと恵みのみとは全く一つのことなのです。
主イエスの言われる、狭い戸口とは、神の恵みにのみ身をゆだねて、救いを受け、そこに立ち続けることです。
恵みに応答して、大いに求め、祈りつとめることは大切です。しかし求めて与えられ、積み重ねてきたこともまた、神の働きによることを信じて、神をたたえ、感謝して生きていくのです。
私どもは、神の恵みの働きを決して忘れてはならないのです。その恵みの働きとつながって、恵みに応答し続けていきたい。
自分の力と経験によって生きて、主の恵みを見失うようなところに立つことがないように祈り求めていきましょう。
「狭い戸口から入るように努めなさい」と主イエスが語りかけておられます。語られた主イエス・キリストこそが、狭い戸口から入られたのではないでしょうか。狭いどころか、決して主なる神が入ることができないかに思える、主なる神が人となる道を選び取って、降誕してくださいました。 十字架にお苦しみになり、誰も忍びとおすことができない道を歩みぬかれて復活されました。私どもの経験がいかに狭くとも、主はすでにご存じであり、深い思いをもって共にいて支えてくださることを信じていきましょう。
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