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2023年12月10日(日)

待降節第2主日

 

礼拝説教「パン種のたとえ」


願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書 13:10-21


<讃美歌>

(21)26,20,233,397,65-1,29 


主イエス・キリストが問いかけておられます。私どもを豊かに導くためです。神の国の祝福に生きるように招いておられます。そして、神の国を何にたとえようか、と問いかけておられます。主イエスの問いかけを理解するために、神の国の意味を心に留める必要があります。

 神の国は、神の恵みの支配だと言われます。

 国と言っても、どこかの国ということではない。社会的な組織が整ったものというよりも、神に属するものです。支配と言っても、上から力で押さえつけていくようなものではないのです。神の恵みによる働きかけによって、導いてくださるのです。主なる神が恵みによって働き導いてくださるところが神の国ということです。

 

 その神の国、神の恵みの働きが、からし種やパン種にたとえられています。有名な主イエスのたとえの一つです。

 からし種は、とても小さな種です。しかしそれは成長して、その枝には鳥が巣をつくるほどになる。主イエスはおそらく、人の目には、からし種のように小さく見える主の働き、その種は、小さく終わらないことを語りかけておられるのです。

 

 主イエスがたとえを話されるとき、そのたとえの解釈で、大切にしているひとつのカギがあります。それは、たとえの中に、主イエスはご自身を語っておられるということです。

 

 からし種のたとえの中に、主イエスはどのようにご自身のことを語っておられるのか。それは、主イエスの御言葉の種が、からし種だととらえることができます。人の思いではすべてを理解できないが、その御言葉を信じて、その恵みに身をゆだねていくとき、その御言葉の種は、その人の中で大きく成長して、魂の休み場をつくっていくのです。そのことは、ひとりの人個人にとどまらない。御言葉の養いに生きる、主の教会の歩みが、からし種の恵みにあずかっているのです。礼拝の恵みの場が、神の国の表れであるのです。鳥のひなにとって、親鳥のいる巣は最も安心できるところです。礼拝もまた、私どもが主なる神の羽のもとで休みを与えられるのです。

 パン種も同じように、礼拝での主の御言葉の導きと理解できます。パン種は、粉をパン生地に造りかえます。その意味では、私どもも、礼拝の恵み、主イエスの御言葉を恵みによって造りかえられていくのです。3サトンの粉は、約38リットルです。当時は、それぐらいの量を一度にこねていたのでしょうか。家族や近所で集まって一緒にこねていたかもしれません。礼拝に集まって、私どもが神様から御言葉によって悔い改めに導かれ、みなが一緒にこねられて恵みでふくらんでいくようなものです。

 

 主イエスはそのような、神の国の恵み、礼拝の祝福にあずからせようと、礼拝の主として、共にいてくださるのです。

 

 「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。」(13:10)とあります。それは主イエスが、人々を礼拝の恵みに生かすためです。

 どのようなことが起こったのか。

 

 18年間も、病に苦しんでいたひとりの女性を、主イエスは癒やされました。そのときに、会堂長が、安息日のおきてを破ったと腹を立てたというのです。

 会堂長を含め、当時の会衆は、安息日のおきてを守っていました。それは、十戒からきているのですが、元々は、安息日を主の日、礼拝の日として、仕事を休むようにというものです。しかし、自分ばかりではなく、その家の僕、外国から来ている労働者、家畜までも休ませるようにという、愛の律法です。その愛の律法の心からすれば、むしろ、安息日にこそ、人を癒すべきです。

 

 主イエスは礼拝の恵みの中で、ひとりの女性を自由にしていかれました。

 礼拝の最後に、祝福が与えられます。そこでは、神の平和(平安)が告げられるのですが、元々はシャロームという言葉です。シャロームは、私どものすべてにおいて欠けたところを、主が満たそうと働きかけてくださる、そのお働きです。ですから、神の癒し、助け、罪の赦し、救いがそのお働きの具体的なものです。そのような神の国の祝福、平和(シャローム)は、礼拝の恵みそのものです。そのことを信じて、安息日の恵みに生かされていきたいと願います。

 

 腰が曲がったままの女性が、癒されました。それは体のことです。

 しかし、私どもの霊的な姿でもあるのではないでしょうか。

 神をまっすぐに見上げることができないで、心の思いが曲がったままのことがあります。それは下を向いたままということです。

 

 ある神学者は、この箇所で、癒されるべき者は、すなわち、礼拝の恵みに入るべき者は、むしろ会堂長であり、会衆だと言います。

 

 私どもも、主の癒やし、恵みによってこそ、下ばかり見るところから自由にされるのです。

 主の恵みの支配、導きによってこそ、主を見上げて、主をたたえつつ生きる者とされるのです。私どもは実に小さな信仰と、小さな祈りをもって見上げる者たちですが、確かなお方である主がその祈りを祝福して豊かに導いてくださることを信じていきましょう。



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