【降誕前第8主日】
礼拝説教「朽ちない希望」
願念 望 牧師
<聖書>
ペトロの手紙一 1:23-25
<讃美歌>
(21)26,382,385,360,65-1,27
聖書は、私どものことをたとえて語ることがあります。いつまでも続かないものを
「朽ちる種」と言い表しています。通常、「種」は長く保存して、別の命を生み出すもとになりますが、しかし、それぞれの命に限りがあります。私どもの地上での歩みは、いつまでも続かないところがあります。草が枯れ、花も散るように、人の生きることも、やがて地上での終わり、別れのときを迎えます。しかしそのはかなさ、空しさの中にも、神は恵みをもって導き、変わることがないお方のもとへと招いてくださるのです。
種を蒔いていないのに、いつの間にか芽が出てきて、花が咲く経験をなさった方もあるでしょう。私どももまた、気づかないところで神によって蒔かれたものが芽を出すことを経験することがあるのです。あるいは天に召されるときに芽を出すものがあるとすれば、それは希望をもって待つことができます。やがて神のもとに帰るときに、そこで聖なる神の命に目覚めることは、神が蒔いてくださったものが、そこで芽を出すということではないでしょうか。
「朽ちる種」に対して、「朽ちない種」とあります。これは明らかに、主イエス・キリストのことです。主イエスが変わらないお方として、私どもを導き、その救いの言葉によって生かしてくださる恵みは、終わることがないのです。
私どもは朽ちる者でありながら、朽ちないお方とつながって生きる幸いが与えられている。その幸いを、特にこの礼拝の時に強く感じるものです。
この朝は、Zoomでも礼拝を配信して、インターネットを介して共に礼拝を献げています。そのことを思いますときに、地上だけではなくて、私どもは、天における主イエスのもとでの礼拝ともつながって礼拝を献げているのです。
天に召された方を、ここで葬儀を執り行い、天にお送りします。そのご遺体と共に礼拝をささげるのですが、天に召されて、神の朽ちない命に目覚めて神の平安にうつされていること信じて、執り行います。そのときに、天と地とがつながってここに礼拝をささげているだと信じて葬儀を執り行っているのです。
天と地とがつながっている恵みがあります。天に召された者の祝福を受け継いで、私どももまた、神からの救い、罪の赦しをいただいて生きるように招かれているのです。
神の約束の言葉は永遠に変わることがない。変わらないお方によって生かされる幸いのもとで、草が枯れ花が散るような私どもの日々の営みにも、神の祝福がもたらされているのです。
「人は皆、草のようで、
その華やかさはすべて、草の花のようだ。
草は枯れ、
花は散る。
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(24・25)
主なる神がごらんになるなら、私どもは草にも、花にもたとえられる小さな存在であるはずです。しかしそのような私どもに、主なる神は心をかけてくださる。上よりの命に生かしてくださる喜びが与えられているのです。
思いがけなく、蒔いた覚えのない種が芽を出すことがあります。
主なる神は、私どもの魂に、主イエスという朽ちない種を、その御言葉を蒔いてくださった。私どもが決して蒔くことができない種であります。その朽ちない種が芽を出し、いまの教会があるのです。私どもの教会生活があるのです。
朽ちない種から生まれた者は、朽ちないのです。空しくはならないし、喜びをもって、変わらないお方とつながって生きることができる。
私どもの教会の歩み、この礼拝も、天とそこにおられる朽ちないお方とつながっている喜びに生かされていることを信じて、その祝福を受け継いでまいりたいと祈り願います。
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