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2023年11月26日(日)収穫感謝 謝恩日

【降誕前第5主日】

 

礼拝説教「イエスがほめられた信仰」

 

岡田朋記(とものり)牧師(ICU高校キリスト教科教諭・赤羽教会協力教師)

<聖書>

ルカによる福音書 7:1-10


<讃美歌>

(21)26,17,575,458,65-1,27 


次週12月3日は、伝統的に、アドヴェント、降誕節の第1の主日で、御子イエスの誕生を記念するクリスマスに向けて、蝋燭に火をともし、救い主の到来を待ち望みます。

 それに先立つ今日11月26日は、教会の暦、教会暦では、1年の終わりにあたります。ちょうどこの時期、教会によっては、1年の実りを感謝する収穫感謝の礼拝を献げるところもありますし、また、教会暦の最後の主日として、聖書に記される歴史の最後の日を覚えて、救い主キリストの再臨を説教の主題に据えるところもあります。

 「よくやった、忠実な良い僕だ。」(マタイ25:21,23)この世の終わりの日に、我々は再びこの地に王の王、主の主として現れる、イエス様よりこのようなほめ言葉をかけられたいと願います。

 ところで、私たちの今の歩み、信仰の旅路は、どのようなものでしょうか。そのイエス様のほめ言葉に向かって、まっすぐな歩みを進めているでしょうか。



 半年ほど前、まだイエス様を信じていらっしゃらない一人の方から、このような質問を受けたことがあります。


 「『信じること・信仰』について、『いい』『悪い』の違いはあるのでしょうか。『よい信仰』と『よくない信仰』があるのであれば、それはドのように違うのでしょうか。」


 この方がこのような質問をした背景として、おそらく、昨年来、たびたびニュースとして取り上げられている、ある宗教団体の存在があるのではないかと思います。問題になっているのは、ご存じの通り、威圧的で脅迫まがいのような態度で、その宗教が教える考え方・教義を強要し、多額の献金・お布施を要求するというその団体の布教方針なのだと思います。

 もちろん、「信仰」について、決定的に大事な、この点は外してはならないというポイントが2つあります。それは、「信仰の対象」つまり「誰に、何に対して」の信仰なのか、という点と、「信仰の内容」つまり「何を信じているか」という点です。前者と後者は密接に関係していて、私たちキリスト者・クリスチャンは、父・御子・聖霊の三位一体の神を信じ、その神に対して、「御子イエス・キリストの十字架の贖いによって、自分の罪が赦されており、イエス様が罪に打ち勝った証拠として3日後死からよみがえられた」と信じています。

 しかしながら、冒頭のその方の「『よい』信仰」とは何か、という問いに答えるために、やはり私自身聖書を読み直してみました。聖書が「信仰」についてどのように言っているのか、イエス様が「信仰」について言及されている箇所があるだろうか、と思ってです。果たして、イエス様と「信仰」について記されている箇所が、いくつかありました。例えば、マルコの福音書2章で、また並行箇所のマタイの福音書9章・ルカの福音書5章で、4人の人が中風の人をイエス様のもとに連れて来ますが、イエス様は「彼らの信仰」を見て、中風の人の罪を赦されます。また、マタイ9章、マルコ5章、ルカ8章に、十二年の間長血をわずらっている女性が、雑踏の中でイエス様の衣の房にふれ、出血が止まる出来事が描かれていますが、その女性にイエス様が「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。」と述べられています。

 その中でも、今日の聖書箇所は、「百人隊長の僕のいやし」と呼ばれる箇所で、イエス様が百人隊長の求めに応じてその僕の病を癒す奇跡をなさる場面です。マタイによる福音書・ヨハネによる福音書にも同様の記事があり、言葉遣いなど少し違うところがあるのですが、特にこのルカによる福音書では、普段あまり出会われた人々のことをあまりお褒めにならないイエス様が、百人隊長の信仰についてほめられているという点で、特徴的な箇所です。今日は、ここから、「『よい』信仰」とはどのようなものなのか、ともに御言葉に聴いていきたいと思います。



 この場面は、イエス様がいらっしゃった、ユダヤの国のカファルナウムという町に、遠い外国、ローマからやって来た兵隊の話です。百人隊長とは、文字通り、100人の部下がいるリーダーで、ある日、この百人隊長の一人の部下が、大きな病気をして、死にそうになりました。言葉も通じない、いまのように病院もないので、この百人隊長は、とても困ったでしょう。百人隊長は、イエス様が病気を治してくださるという話を聞きました。そして、知っているユダヤ人の長老たち…つまり、リーダーを使いにやって、子の病気の部下を助けに来てほしいと頼むことにしたのです。

 長老たちは、イエスのところにやって来て、熱心にお願いしました。「助けを求めているこの百人隊長は、素晴らしい人です。外国人である私達ユダヤ人を愛して、会堂、つまり礼拝する場所を立ててくださったのです。何とか助けていただけないでしょうか。」

 そこで、イエスは長老たちといっしょに出かけました。ところが、百人隊長の家に着く前に、百人隊長は、もう一人の部下を使いにやって、イエス様にこのように言わせたのです。「主よ、私はあなたより低い者です。わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。私にも部下がおりますが、私が『行け』と言えば行きますし、もう一人の部下に『来い』と言えば来ます。」

 イエス様は、部下が伝えたこの百人隊長の言葉を聞いて、感心されました。力ある人の言葉があれば、その言葉の通りになる、ということを、この百人隊長は信じていたからです。イエス様は、ついて来た他の人たちに言いました。「私は、この国、イスラエルの中に、これほど信じていることを見たことがない。」そして、イエス様に伝言を伝えた部下が百人隊長の家に戻ってみると、その部下は病気が治って、元気になっていたのです。


ここから、「『よい』信仰」とは何かについて、2つの点に注目したいと思います。


 まず1点目は、権威についてです。百人隊長には、部下がいました。そして、上司もいたのです。8節にこうあります。


と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」


 権威とは、いったい何でしょうか。…どのような社会にも、上下関係があります。上司と部下、目上と目下、師範と弟子もそうでしょう。そこには、「命令する側」と「命令される側」の関係があります。…では、人と、ロボットではどうでしょうか。…確かに、ロボットは、人から命令を受けて動くと言えるでしょう。しかし、ロボットには、人の命令を拒むという選択肢はありません。ただ、人が言うことをそのまま、実行するのみです。果たして、その人とロボットの関係の中に、相手をいたわる気持ち、大事にしようとする気持ちはあるでしょうか。…もしかすると、「ロボットがかわいい」という、命令する側の、人の方にはあるかもしれません。しかし、ロボットの側に、その気持ちはないのではないでしょうか。…人とロボットの間にあるもの。そこには、「命令する・される」という一種の「上下関係」はあるかもしれませんが、そこに「相手を、そして相手の立場を認める」「敬う」「たとえ自分の方が上の立場だったとしても、下の立場の相手を重んじる」という関係性はないのではないかと思います。

 「権威」は、ただの「上下関係」ではありません。一人の人と、もう一人の人との間に存在する、互いの存在を尊重することを前提とした関係の中にあるものではないでしょうか。別の言葉で言えば、次のようなことになると思います。命令を受ける側に、「命令を受ける・受けない」という選択肢が与えられていて、それでも命令を受ける側が、命令をする側を認め、「命令を受ける」という選択肢を自らの意思で選ぶことができるときに初めて、命令をする側に「本当の権威」があると言えるのではないでしょうか。つまり、権威とは、「命令される側」の、「命令する側」に対する信頼なしでは成立しませんし、また、「命令する側」の、「命令される側」に対する思いやり、愛なしには成立しないのです。

 この聖書箇所に登場するローマ帝国の百人隊長には、新の意味での「権威」があったのだと思います。自分の部下が、死ぬほどの病気にかかったとき、彼を何とかして助けてやりたいと思ったこと。そしてそのために、支配の対象である、ユダヤ人の長老に依頼して、イエス様とのとりなしを願ったこと。この百人隊長は、自分の権威は、決して自分の力で得たものでないということを、よく理解していました。彼がその立場にあったのは、ローマ帝国の軍のさらに上の立場からの命令であることを、よく理解していたのです。自分を信頼してくれる上役に対する信頼。このような信頼関係こそが、権威の中核なのではないでしょうか。


 今日注目したい2点目は、「信仰」についてです。先ほど見たように、「権威」には、「信頼」が伴います。百人隊長は、イエス様の権威を認めていました。それは、「このお方なら、部下の病気を何とかしてくださる」「このお方は、信頼に値する」という信頼です。軍に所属する彼は、言葉の重みを知っていました。上官の命令の言葉一つで、部下は動くのです。だから、百人隊長が求めたのは、イエス様のお言葉一つでした。7節「ひと言おっしゃってください。」…一言、ただ一言でいいのです。私が求めるのは、主よ、あなたの言葉が全てで、そしてそれで十分なのです。百人隊長の信頼とは、このようなものだったのです。

 9節、イエス様は、百人隊長の別の部下が伝えたこの言葉を聞いて驚き、感心して、ついて来ていた民衆に大してこのように言われました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」「これほどの」という語は、新約聖書が元々書かれたギリシア語では、「ここまでの素晴らしい」という褒め言葉です。この語は、日本語の別の訳では、「りっぱな信仰」と訳されています。「りっぱな信仰」を持つ人とは、決して、その人がしっかりしていることではありません。むしろ、その人自身は無力で、もっと大きな力を持つ存在に、全幅の信頼を寄せるということなのです。


 私たちは、この数年間、コロナウィルスという目に見えない存在によって、生活の上で大きな影響を受けてきました。ウィルスの怖いところは、知らないうちに感染する、つまり、これは病気一般に言えることですが、健康は、たとえ注意していたとしても、自分ではどうにもできない部分があるということなのではないでしょうか。自分が持っている「命」は、実は、自分でコントロールできるものではありません。私たちの命は、私たちが自由に使える「持ち物」では、決してないのです。私たちは、時に、自分一人ではどのようにしたらよいか分からない大きな問題に遭遇します。その時、私たちは、私たちの思いを超えて存在している神に、どのように、何を願うのでしょうか。

 「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」百人隊長が願ったのは、これだけでした。しかし、イエス様の言葉は、人を生かし、命を与えてくださるのです。イエス様の言葉は、国境を越えて、だれにでも、開かれています。そして、私たちも、聖書を通して日本語でも受け取ることができるのです。愛をもって私たちを信頼してくださる神に、また、神の子イエスに、この百人隊長にならって、感謝して、全幅の信頼を寄せ、イエス様の命の言葉を受け取りましょう。



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