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shirasagichurch

2023年11月19日(日)

【降誕前第6主日】

 

礼拝説教「仮面をはずす」

 

願念 望 牧師

<聖書>

ルカによる福音書 12:54-59


<讃美歌>

(21)26,7,51,451,65-1,27 


 ルカ書の12章を学び終えることになりますが、12章1節からをふり返りますと、

「数え切れないほどの群衆が集まってきて、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。『ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。』」(1)と、

弟子たちに「偽善」に生きることのないように語りかけられています。そのことが、今日の個所にも続いています。ルカは、自分たちへの語りかけであると信じて記しました。私どもも、主イエスの愛による語りかけであると信じて思いを深めましょう。


 「偽善」というのは元々、役者が演じていた「仮面」という言葉が元になっています。ファリサイ派の者たちは、自分たちと人々を区別して、律法を忠実に守り、誰よりも神に従っていると思っていた。人々からも尊敬されていた。しかし主イエスは、人々の目には隠されていても、主なる神がご覧になると仮面の下にある素顔のような、明らかな罪の姿があると言われる。「それは偽善である」と言われたのです。


 弟子たちに語られる主イエスの言葉を、そばで「足を踏み合うほど」の群衆が聞いていた。彼らはどんな思いで聞いていたか。直接自分たちにではなく、弟子たちに語られる言葉を横で聞いていたのは心地よかったかもしれない。

 しかしここでは、主イエスははっきりと「また群衆にも言われた」(54)とあります。「群衆にも」ということは、弟子たちを含んでいますが、群衆に向かって「あなたがたは、・・・」と語りかけられた。しかも、「偽善者よ」と言われたのです。


 主イエスはまず、群衆が持っていた常識、天候を見分けることを話されます。雲が西に出るのを見ると「にわか雨になる」(54)とは、ユダヤの地からみて西は地中海です。おそらく西から地中海の水分を含んだ雲が出て、雨が降ることは体に染みついたものだったのかもしれません。

 南風が吹いているのを見ると「暑くなる」(55)とは、ユダヤの南には砂漠が広がり、さらにその先にエジプトがあります。南から吹く風は暑さをもたらしたのでしょう。私どもも、天候のことを話題にすることが多くなったのではないでしょうか。天候に体調も左右されます。

 当時の人々はどうだったかと言うと、確かに天候に左右される収穫のことを考えると切実だったのかもしれません。食べ物の収穫にかかわるのですから、生死の問題です。しかし主イエスは語られた。「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、今の時を見分けることを知らないのか。」もっと、人が生きること、何が人を生かすかという問題を主イエス・キリストは語りかけておられるのです。


「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」(12:31)と語られた主イエスは、天候のことよりも、もっと必要な神の働きを知るようにと願われたはずです。神の働きはすなわち、主イエスの働きです。


 神の国は、神の恵みの支配だと言われます。ある神学者は、主イエスの恵みの支配は、罪の赦しの支配だと言います。主イエスはここで、訴える人と和解するようにと招かれます。人間関係に苦しむときに、主が和解に導いてくださることを信じて聞くことができます。

 また昔から、ここでの訴える人の話は、私どもを罪に定めることができる主なる神のことが語られているという理解があります。主なる神に訴えられるとは、その犯した罪をさばかれることがあるということです。

 

 礼拝において、主イエスは私どもを御言葉によって照らしてくださいます。それは私どもを御言葉によって照らしてさばかれるということです。

 しかしそれは断罪して退けるためではなく、私どもの罪を赦して、救いの恵みに生かすためです。「偽善」という言葉を聞いて、私どもは人目に移る姿と自分自身の姿の違いに少なからず気づいて、他人事ではないと思うのではないでしょうか。しかし、仮面をはずすように、自分自身として主の前に出て、御言葉によって照らされることは、主の愛に照らされることです。「偽善者よ」(56)という主の語りかけにも、主の愛を受けとることができるのです。


 「偽善者よ」「訴える人と・・・仲直りするように」と、私どもを照らして、周りの者や神から罪を指摘され、さばかれるべき者であることを示されたのは、主イエスがそこから救い、赦しの恵みに生かすためであります。主イエスの赦しの支配に生かすためです。


 主イエスの赦しの支配に生きて、自らも自分を赦し、受け入れていくのです。赦された者はまた、赦す者となっていくのです。

 自らが神にさばかれる者であることを知って、罪を言い表して赦しを信じていく。そこでこそ、魂の安らぎ、平安を得るのです。


 「偽善者よ」と語る主イエスの言葉にも、赦しの恵みに招く愛が込められていることを信じていきましょう。どこまでも私どもを受け入れて赦し、神の愛によって生かそうとする、主の深い思いを信じて、魂に休息を与えられて、主の平安を生きていきましょう。



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