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shirasagichurch

2023年11月12日(日)子ども祝福

【降誕前第7主日】

 

礼拝説教「罪をゆるされる神」   

 

願念 望 牧師

<聖書>

ミカ書7:18-19 

ルカによる福音書12:49-53  


<讃美歌>

(21)26,205,60,419,65-1,27


 この箇所の主イエスの言葉を聞いて、当時の者たちは、思い返す旧約聖書の言葉があったのではないか。

「息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。」(ミカ7:6)


 ミカ書にあるような、対立で言い表された状況は、そのころ神の審きを受けて国が滅んでしまったことです。アッシリア帝国によって北イスラエル王国が滅び、家族も引き離されました。

 さらには南ユダ王国もバビロン帝国によって滅び、バビロン捕囚がはじまります。そのようなときに預言者として働きかけたのがミカです。


 国が滅んだことは絶望ですが、しかしその絶望の先に、すなわち人の力の及ばない領域に、さらに主なる神が働かれる希望がミカ書に記されています。

「しかしわたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。」(7:7)

 願いが聞かれることは、バビロンからの帰還の預言としても聞くことができるのです。

「あなたのような神があろうか

咎(とが)を除き、罪を赦される神が。

神は御自分の嗣業の民の残りの者に

いつまでも怒りを保たれることはない

神は慈しみを喜ばれるゆえに。

主は再び我らを憐れみ

我らの咎を抑え

すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」(7:18-19)


 おそらく初代教会のキリスト者、ルカの教会の者たちは、ミカ書に重ねるように、主イエスの言葉を聞いたのではないか。

 それは、大きな迫害のもとにあったからです。国が滅びるということではなかったが、小さな群れであった初代教会は消されてしまうのではないかというぐらいに、絶望的な状況がありました。しかし、人の望みや力がつきるときにも、なおそこに主の道が備えられているのです。


 ルカの教会の者たちは主の道を歩み、主イエスを愛して従う中で、主イエスの苦しみを垣間見ていく喜びが与えられたのではないかと思います。主イエスは語られました。

「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」(50)

 これは主イエスの十字架の預言だといわれます。確かに、主イエスは十字架にいのちを献げて、私どもに代わって神の審きを受けて苦しんでくださいました。

 しかし「それが終わるまで」というのは、救いの完成に向かってなおも私どもと共に生きてくださる主イエスの言葉としても聞くことができるのです。

 初代教会の者たちは、十字架にかかられ復活された主イエスが、なおも自分たちと共にいて苦しみを共に担ってくださると、信じて生きていったのです。


 主イエスは「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」(49)と言われます。

 主イエスがもたらされた火とは何でしょうか。

 聖書で火とは、神の審きの火と理解されることがありますが、神ご自身が火として表されることがあります。その神の火が地上にしっかりと燃えているということは、神が神として崇められ、主の御心がなるということです。そのような火としての神の臨在が地上にもたらされるために主イエスは命を献げられました。

 それは、主イエスによって、聖霊が与えられたということです。

 教会に聖霊が与えられ、神の霊として、火として共に生き、私どもを照らし、聖なる命に生かしてくださるのです。

 礼拝を献げて恵みを受け、御言葉に養われていくことができるのは、神の霊、聖霊の火が主イエスによって投じられたからなのです。


 礼拝は神に感謝をささげるときと言うことができます。何を感謝するか。それはひとつには私どもの罪と主イエスの義が交換されていることです。

「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリント5:21)

 

 主イエスは苦しみを十字架に受けてくださった。それは私どもの罪を、ご自身の罪としてくださったのです。その代わりに、交換として、主イエスの義、神の義を私どもの義としてくださった。

 あり得ない交換ですが、主イエスはその救いの恵みを投ずるために苦しみを受けてくださいました。主イエスの受けられたものによって、私どもの魂に消えない感謝のともし火がともされているのです。



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