【聖霊降臨節第20主日】
礼拝説教「神の前に豊かに」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書12:13-21
<讃美歌>
(21)25,2,210,479,65-1,28
弟子たちに語りかける主イエスの言葉を中断するように、群衆の一人が主イエスに願い出ています。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」(13)彼は、主イエスの恵みにあふれた説教を聞き続けられなかったのでしょうか。「足を踏み合うほどに」(1)押し迫る群衆の中におり、おそらくは弟子たちに語る主イエスの言葉を傍らで耳にしていたでしょう。しかし、残念ながら自分への神の言葉として心を開いていくことができなかったのではないか。あるいは、こんなことを願い出ることはどうかと迷い自制していた彼が、「友人であるあなたがたに言っておく。」(4)と主イエスの言葉を聞くのです。一羽ごとに売られていない雀の一羽さえ、神がお忘れにならない、なおさらあなたがたは一人一人神の御心にとまっていると主イエスは語りかけられます。だんだんとこのお方ならと、心を開いていったのかもしれない。そして、最初から彼の心に最も引っかかっていた煩いを口にして、主イエスのもとに進み出て行くのです。
しかし主イエスは、遮るような彼の願いをさえ、受けとめておられます。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」と言われますが、退けてはおられません。必要なことを語りかけられました。「そして、一同に言われた。」(15)とある「一同」は、弟子たちと群衆たちのことです。そこに「・・・兄弟に言ってください。」と願い出た一人も、もちろん含まれています。すなわち、彼を含めた「一同」です。
主イエスは、心に疼くものを抱えて、御言葉を御言葉として聞くことができない彼を心にかけて顧みておられます。神の言葉の説教を聞き取り、弟子の一人に加えて、「神の前に豊かに」(21)生きるように心を砕いておられるのです。そのように彼のために心を砕いておられる主イエスであるからこそ、自らの心配事でいっぱいでどうしようもない彼の心を捕らえて開き、彼を生かさない心に巣くうものを砕いていくことができるのではないでしょうか。
私どもも言葉が耳に入ってこないことがよくあります。私も何か別のことを考えていて、子どもたちが話しかけているのに反応しないで強く呼びかけられることがあります。気になることや大きな悩みがあって、説教の言葉に集中できない経験をおもちかもしれません。
この人は、遺産のうち定められたものを、兄弟がどん欲であったためか受け取れないので腹を立て、そのことで心を支配されていたと考えられます。他の者が、財産相続の際に起こす醜い争いを見てきたのかもしれないが、それが自分の身に降りかかると、自分でも意識できないような心の深みまで、そのことで捕らえられていったのではないかと思います。
主イエスは、当事者となり訴える彼の心の実情を見抜いて、「どんな貪欲にも注意を払い用心しなさい。」(15)と語りかけられます。彼はその言葉を聞いて、貪欲なのは兄弟の方だと思ったでしょうが、神の言葉に照らし出されて、自分は貪欲ではないと言い返すことはできずに、そこに立ち尽くすのです。
そして主イエスは、ある金持ちのことを話されます。貪欲から解かれて、「神の前に豊かに」なるためです。悩み苦しむ者の願いの強さよりも、はるかに強く確かに、主イエスは彼を招いておられます。彼の最初の願いや苦悩は、主イエスの深い神の思いに、飲み込まれているのです。
貪欲とは何でしょうか。貪欲は、満ち足りてもなお満足することを知らないことではないでしょうか。それは、どんなに持っていても、もっと欲しと思うことです。行き過ぎた健康志向もまた、貪欲と通じたものとして気をつけるべきではないかと思います。充分と思えるほどの健康を与えられながら、さらにもっと完璧であろうとするところに、むしろ気をつけるべき貪欲が潜んでいるのではないかと思います。
主イエスは、「人の命は財産によってはどうすることもできない」(15)と宣言されます。私どもの命を真実に守るものは財産ではないということです。16節以下の、ある金持ちの話が示すように、持っているものによって安心し、財産によって自分の命が守られて生きていくことができるという思いが、貪欲と繋がった「愚かな」思いであるということに、私どもはどれほど危機感を抱いて闘っているでしょうか。主イエスはここで、危機感をいただいて語っておられるのです。20節で「愚かな者よ」と語る神の言葉は、まさに主イエスの愛の御言葉であり、「愚かさ」から解かれて「神の前に豊か」になるようにと招いておられるのです。
貪欲からくる思いは、もっとこれが得られたらと思い描いていく、満たされることがない思いではないか。たとえ求めるものが得られたとしても、もっとさらにあれが得られたらと、さらにその先へと喜びがするりと逃げていくようなものではないか。つまりは、獲得できない、自らのものとはならない喜びであります。
あるいは、食べてひととき満腹になっても、また空腹になることに似ているかもしれません。満足感は長くは続かず、また新たな空腹感が身体の中から湧き起こって人を動かしていくのです。
「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」(19)と自らに語りかけるある金持ちの姿は、「こう自分に言ってやるのだ」とあるように、自分で自分に言い聞かせているのです。ある意味で、説教していると言うことができるのではないか。しかしそこには、何年か先に、蓄えが底をつき、しかも不作であったときのことは考えないで、とにかく、今このときを「楽しめ」と言い聞かせているような、なお心にある不安を封じ込めるような声として聞こえてくるのです。
神は、私どもがそのような、つかの間の財産によって支配され、自らを言い聞かせるように「楽しめ」と言って生きようとするところに留まることを望んではおられないのです。
「命は取り上げられる」(20)という言葉は、原語の意味合いは「命を返還要求される」であり、命が神からの借り物であることを暗示しています。
「取り上げられる」という言葉とは対照的に、この箇所に続く、弟子たちに主イエスが語られた言葉に、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(32)とあります。「くださる」ので、「取り上げられる」ことも「返還要求される」こともないはずです。
主イエスはここで、貪欲と繋がり持ち物という財産によって生きることから解き放ち、神からの財産によって生きるようにと願って語っておられるのです。持つべき神からの財産とは何でしょうか。
主イエスは「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と約束されたが、「神の国」とは、神の恵みの支配、救いと言ってもいいのです。それは主イエスそのものであると理解することができます。「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」(2:40)主イエスこそ、神の恵みの支配である「神の国」そのものではないでしょうか。
持つべき神からの財産は、ルカが1章から記している、主イエスの「罪の赦しの救い」(1:77)の命に生きていくことではないか。そのときに、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」という父なる神の喜びの内に、尽きない魂の喜びに生きることができるのです。
それは、持ち物という財産に縛られない生き方ができるようになるのですから、持ち物を他者のために用いる自由という幸いをも与えられていくのではないでしょうか。
主イエスは私どものために、御自身という神の富を十字架の上に献げて、私どもを神の前に豊かな者とならせてくださったのです。私どもは教会というキリストのからだの一部とされて、主イエスという財産を永遠にいただいて生きているのです。
主イエスは、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(21)と宣言されたが、全くその正反対のことを、主イエスご自身がなさいました。
それはある者たちの心には「愚かな者」と映るかもしれないが、まことに父なる神の御心に適って相応しく映っているはずです。神のために、また神の御心にそって、私どものために御自身という富を積んで、神の前に豊かになってくださいました。主イエスという神の財産に連なるようになった私どもを、主イエスはその財産の一部として喜んでくださっているのです。
主イエスに繋がる私どもは、貪欲によって朽ちる財産を求める執拗さに勝って、もっと健やかに主イエスという神の豊かさを慕う礼拝の心が、その魂に生み出されていくのです。主イエスという神の豊かさを慕うことは、主イエスの御言葉の語りかけによってこそ生きるよう祈ることとひとつであります。
主イエスは、私どもを主イエスと共に神の前に豊かになるよう、教会というその御体の一部分として生かしてくださっていることを信じて主に従っていきましょう。
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