【降誕前第9主日】
礼拝説教「待つべき方とは」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書12:35-48
<讃美歌>
(21)25,20,472,579,65-1,28
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」(35)
主イエスは、主人を待つしもべにたとえて、私どもに語りかけられています。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」との語りかけを、どのように聞き取るでしょうか。
まず前後のつながりを見ますと、少し前で、主イエスは「ただ、神の国を求めなさい。そうすればこれらのものは加えて与えられる。」(12:31)と語られました。この箇所のしもべの姿は、ひたすらに神の国を求める姿としても聞くことができます。「ただ、神の国を求め」て生きる姿は、この箇所でどのように示されているのか、思いを深めてまいりたい。
当時の結婚式の祝いは、2・3日続いたようです。ですから結婚式に出席した主人が、いつ帰ってくるか、しもべにはわからない。そのようなときに、しもべは、いつでも主人が帰ってこられるように待っている必要がありました。
夜中に帰ってくるなら、暗い夜道の先に明かりが見えて、道に迷わないように、ともし火を灯していました。街灯などないからで、明かりがないと、容易に迷ってしまいます。
ともし火を灯してくれていることは、主人にとっては、とても喜ばしいことです。「主人の思いを知りながら」(47)とありますが、私どもは主イエスが喜んでくださることを自らの喜びとしようとして仕えているでしょうか。ともすれば、自分の喜びが満たされることに終始しているのではないでしょうか。
自分の祈りが聞かれたり、願いがかなったり、必要が満たされることは、もちろん感謝なことですし、私どもの心を注ぐようにして祈ることも必要なことです。
しからながら、主の御心をたずね求めることをしないで、自分の必要だけを出発点としていく歩みは、どこかで行き詰まることがあるのです。「主人の思い」を知ることはどうしても必要ですし、そのことは神の国を求めていくことでもあります。そして、何より私どもを生かすのです。自分の喜びが満たされることをひたすら求めるよりも、主が喜んでくださることを追い求めていく方が、むしろ私どもを生かすのです。
さてこのたとえで主人は、帰ってくるとどうするでしょうか。
しもべたちから、もてなしを受けて疲れを癒やしたかというとその逆です。「はっきり言っておくが、主人は帯を締めてこの僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」(37)「主人は帯を締めてこの僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」とは、どういうことなのか、少し立ち止まって考えてみたいと思います。
いろんな想像が可能です。婚宴のおみやげ、ごちそうを持ち帰っていたのかもしれない。しかしそうであっても、主人が僕たちに帯を締めて給仕することなど、当時の主人と僕たちとの関係では、全く考えられないことです。
ここで主イエスは明らかに、ご自身のことを語っておられるのです。
たとえるなら、主イエスは私どもに、ごちそうを食べさせようと喜んで給仕してくださるお方です。主イエスが私どもに食べさせてくださるとはどういうことでしょうか。想い起こす話をすでに、ルカは記しています。それはマルタとマリアが主イエスを家に迎えたときのことです。
マルタは主イエスをもてなそうと必死でしたが、マリアは主イエスの語られる御言葉から離れられなかった。別な言い方をすれば、御言葉のごちそうから離れられなかったのです。
主イエスもまた「必要なことはただ一つだけである。」(10:42)と言われました。
主イエスは喜んで、私どもに御言葉の糧を食べさせて養ってくださる。ときに厳しくも愛をもって必要な御言葉の食べものを与えてくださるのです。まさに礼拝は、主人が帯を締めて僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれるときではないでしょうか。御言葉の糧を主が給仕してくださるのです。礼拝の備えることは、主イエスにお会いする用意をして待っていることでもあります。しかし、この個所のたとえでは、主人は突然帰ってくるというのです。
この箇所で主イエスに会う用意をして待っていることは、主イエスが再びこらえる再臨に備えることだと言われます。主が再び来られて救いを完成してくださる日がいつであるかは分からないのです。
しかしある信頼する神学者が言うように、地上での生涯を終えて主イエスにお会いするときに、それは時間の流れを超えて、そこで再臨の主イエスにお会いすると信じて構わないのです。
地上での生涯を、信仰の旅路にたとえることができます。
それはいつ終わるかは自分では分からない。
しかし魂の深いところで、いつも、やがて主イエスにお目にかかる旅路を歩んでいることを忘れてはならないのです。礼拝のたびごとに、私どもは聖霊のお働きによって、御言葉を通して主にお会いしているのです。恵みによって、やがて主に直接お会いすることを、礼拝のたびごとに先取りしているのです。ですから主は言われます。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」
私どものために天にふるさとを備え、「帯を締めて」とこしえの恵みを食べさせようと待っていてくださる主イエスがおられます。主イエスはそのような主人、私どもの救い主であることを信じていきましょう。私どもが、やがて主にお会いすることを信じて生きていることを、主イエスはご自身の喜びとしてくださっているのです。
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