【聖霊降臨節第22主日】
礼拝説教「十字架の言葉は、神の力。」
仲 義之 牧師(横浜女学院中学校・高等学校 聖書科教諭)
<聖書>
コリントの信徒への手紙一 1:18~31
<讃美歌>
(21)25,17,342,467,65-1,28
主にある兄弟姉妹の皆さま、初めまして。横浜女学院中・高にて聖書科教師を務めております、仲義之と申します。この度はまた、「あしの会」を通してお招き頂き、こうして説教の奉仕の機会を頂けましたこと、心より感謝しております。
さて、早速本日の聖書の御言葉に触れて参りたいと思います。
まず、今日のこの御言葉は聖書の最も中核的な教えである、「十字架」の知らせ、あるいは「十字架の教え」を全く留保なく、前面に示している御言葉と言えます。タイトルにあります通り、「十字架の言葉は、神の力です。」ということが、本日のテーマです。
しかし今回タイトルには含めなかった御言葉があります。それは「滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には」という部分です。「十字架の言葉」は「滅んでいく者には愚かなもの」なのです。この世が全てであり、この世で人生の全てが終わり、この世の死が全ての終わりである者にとっては、「愚か」なことです。この「愚か」という言葉は第一コリントで度々(変化形等も含めると5回)登場する言葉です。また他の書にはあまり登場せず、この第一コリントの1~3章で集中的に登場する言葉です。それは、筆者であるパウロのアレオパゴス広場での苦い記憶があると想定できます。「愚か者扱いされたショック」のようなものを読み取ることもできると思います。
パウロ自身は青年(あるいは少年)のころからファリサイ派の学びを続けてきましたし、またその学びの中で優秀な存在として見られていたであろうことは想像に難くありません。このコリントの教会に関わる直前、アテネの哲学者が集まるアレオパゴス広場で彼は「知られない神へ」と記述が刻まれた偶像を憤りつつも、単純に拒否するのではなく、彼らの詩人の言葉を引用しながら、そのような姿勢に一定の理解を示す語り方をします。偶像崇拝ではあっても、「自分は神ではなく、神の事を知り尽くすことができない。」ということを示す姿勢に一定の理解や教会を示しつつ、「その知られない神は聖書の神、そしてイエス・キリストなのだ」と語ろうとしたのです。しかし、そしてそれが「相手につながらない・伝わらない」という経験をするのです。人は皆、宗教的な思いを持ち、その宗教的な謙虚さがある人には、「理性的な対話」で主イエスを理解してもらえるのではないだろうか。その淡い期待が打ち砕かれた経験なのです。残念ながら、主イエスの十字架無き謙遜は、人間へ配慮にならざるを得ません。知恵を探すギリシャ人の言葉と、自分の伝えるべき「十字架の言葉」との決定的な亀裂をパウロは体験的に知る事になります。使徒言行録17章16節以下にはその顛末が書かれています。「復活、それについてはいずれまた聞かせてもらうことにしよう。」(17章32節)というあざ笑う言い方であしらわれています。その直後にコリントの教会を訪れます。そしてその時、「わたしは衰弱していて、恐れにとりつかれ、ひどく不安でした。」(コリント第一 2章3節)と述べています。その心境の中でパウロは「私はイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた。」(2章2節)というのです。
挫折、失望感、あるいは恐れや不安感も伴いながら、彼は骨身に沁みて知ったのです。自分が神に選ばれ、伝えるように示されている言葉、それは「十字架の言葉なのだ。」と。ここが決定的な勝負所なのだ、と。
「十字架の言葉」それは、知恵を探す人には、全く「愚か」に見えます。全ての人は、自分や隣人、人間が「幸せ」になるために、「豊か」になるために、日本語的には「五穀豊穣」という言い方がありますが、その為に知恵を探します。これを否定する知恵など、愚かの極みだからです。「十字架にかけられたあのイエス」「ボロボロに傷つけられ、痛めつけられ、惨めに死んでいったイエス」を伝えることは、復活無き人間には、天の国、神の国無き人にとっては、「愚の骨頂」まさしく「愚か」なのです。
また、今回の聖書箇所には、十字架につけられたキリストは「しるしを求めるユダヤ人にはつまづかせるもの」とあります。ギリシャ人と違って旧約聖書をメインと据えるユダヤ人は「神の力」にふさわしい「しるし」が重要です。モーセが海を割ったように、ヨシュアが太陽を天において止めたように、サムソンが怪力を示し、エリヤが天から火を下したように、常人では行い得ない、「しるし」を求めるのです。「エリヤを読んでいる!降りてみろ、そうすれば信じるから。十字架から降りて、奇跡のしるしを示してみろ。」というのがユダヤ人の神の力を認識する時の典型的な発想なのです。
我々は、そうではない、と言います。これは恐るべきことと思います。我々は「奇跡や超常現象」を見て信じるのではない、というのです。また、われわれは、「これは人を大変に幸せにする教えであり、全体に深い納得感と共感が広がった。」ということで信じるわけではないのです。もしそうであったら、とても気楽な信仰であったでしょう。しかしそれによって、我々は決して自分では解決できないことを保持し続けたでしょう。その解決を我々はあの十字架の主イエスの姿に依って、「救われた」から信じるのです。十字架のキリストに、その十字架の言葉に「捉えられ、心を結び付けられ、あの主イエスの姿にかけがえのない、決して他の何かでは取り換えることのできない、全き、本当の、心の底からの、確かな救い。」を見出し、信じているのです。奇跡が起こるわけでもなく、それでこの世の何かを得るわけでもありません。物質的に豊かになるわけでもなければ、賢くなるわけでもありません。ただ、我々はそこに、「神の前の罪、からの救い」を見出すのです。「十字架に上げられた主イエスの姿を信じて仰ぎ見る」(ヨハネ3章15節)所に、我々の救いがあります。そこに私たちの信仰があるのです。
そしてその信仰は、本日の後半の言及に繋がってくるものです。つまり、26節「あなた方が召された時を、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また神は地位のあるものを無力なものとするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げされている者を選ばれたのです。それは、だれ一人神の前で誇ることがないようにするためです。」
十字架の主イエスを仰ぎ見ること、「十字架の言葉」を核として、われわれは、無学でも無力でも、家柄もなく、地位もない者であっても神に選ばれました。それは、「神の前に誰一人誇ることのないようにするためだ。」と聖書は名言します。神に対して、誰一人としてです。知恵があろうと、力があろうと、家柄が良くとも、身分が偉くとも、神の前には無に等しいことを教えるために主イエスは十字架にて上げられたのです。神の恵みを、自分の誇りとしてしまう人間の罪深さを贖うために、主イエスは死なれたのです。そしてわれわれは、ただ、「主のみを誇り」(31節)ます。誇れることは、ただ、恵み給う神、特に十字架の恵みを給う方のみ、なのです。神の子である方がその列の1番前に立っておられれます。天の国で神の身分で良かったはずの方が、我々を生かし、神の前にひざまずくことができるよう、そのようにして永遠に生きる道を開いて下さったのです。その十字架の姿にこそ、我々の救いがあります。この世の知恵も、この世の力も、いかなる賢さも奇跡的なことも決して叶わない、真の神の前の救いがあります。
「十字架の言葉は、神の力」なのです。
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