【聖霊降臨節第19主日】
礼拝説教「主イエスの仲間」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書12:1-12
<讃美歌>
(21)25,17,141,81,394,65-1,28
キリスト教会は、主なる神によって生み出されて、礼拝を献げてきました。もう2000年ほど続く礼拝です。主なる神がおられなければ、その恵みによる力をもって支えてくださらなければ、とても人の力や信仰では続けることはできなかったのです。主の恵みによる働きかけは、私どもにも与えられていることに思いを深めていきましょう。
主イエスは「数えきれいないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった」(1)ときに、「まず弟子たちに話し始められ」ました。弟子たちが群衆の数の多さに心を奪われていたかもしれません。彼らの心の奥底を見抜いて語りかけられたのです。
「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは、偽善である。」(1)とはどういうことでしょうか。偽善があるパンをふくらませているイメージですが、それはやがて明らかになり、いつまでも続くものではないのです。主イエスは弟子たちが真実な神の恵みに生きることを心から願っておられました。ファリサイ派の人々のパン種があるなら、主イエスのパン種もあるはずです。主の恵みのパン種が弟子たちを導き、教会をここまで生かしてきたのではないでしょうか。
主の恵みに生きる心の奥底の思いは、主の恵みの御言葉に支えられます。「友人であるあなたがたに言っておく」(4)という主イエスの御言葉に支えられます。私どもを主が、「友人」と見ていてくださることはあり得ないことです。私どもは主なる神のしもべとして生きていくことは、納得がしやすいと思います。しかし主は、私どもを主の「友人」と読んでくださることは受け入れがたいほどに私どもを受け入れ、かけがえのない者と見ていてくださるということです。
当時の人々は、「五羽の雀が二アサリオンで売られている」(6)ことをよく知っていました。一羽一羽売られていない雀のことを主が心にとめておられることを教えながら、主イエスは「友人であるあなたがたに言っておく」「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と語りかけてくださるのです。
さて今日の個所でその締めくくりのように12節で「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」とあります。聖霊は、神ご自身の霊ですが、ペンテコステのことを思い起こされる方もあるでしょう。
ペンテコステというのは、第50という意味です。50日目に聖霊が来てくださって教会が誕生しました。それは主イエス・キリストが復活されてから50日目のことです。主イエスは復活された後、40日にわたって弟子たちにあらわれ、その復活の姿を示され、天に昇られました。昇天されるまえには、弟子たちに聖霊が与えられることを待ち望んで祈るよう命じられました。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)
その主イエスの約束が成就したのが、ペンテコステです。
ペンテコステのときに、ペトロたちが聖霊に満たされて力強く主イエス・キリストを宣べ伝えました。主の御言葉を聖霊によって語ったのです。今日の個所の「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」ことが実現したのです。
以来教会は、礼拝において、聖霊の働きのもと、主の御言葉を語り続けてきました。神の言葉を語り続けて、その御言葉に養われる礼拝を献げてきたのです。
主イエスは、「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」と語りかけておられます。すでにこの箇所で、主イエスは聖霊降臨後の、聖霊の導きのもとでの教会の歩みを見据えておられるのです。
迫害の厳しい時代に生きることを、主はよく知っておられたはずです。ペトロたちが、ペンテコステのあと、歩み始めたときに、ヨハネの兄弟ヤコブは剣で殺されて殉教したのです。ペトロも捕らえられて牢に閉じ込められたのですが、奇跡的に助けられました。しかし後に殉教したと伝えられています。
キリスト者を迫害していたパウロも、主に出会って悔い改め、主イエス・キリストを命を献げて伝える人となりました。パウロも牢に捕らえられたときに、その看守が救われていったのです。そのときにパウロは主の御言葉を語りかけました。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)
主イエスは「会堂や役人、権力者のところに連れていかれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」(11、12)と約束されました。「どう言い訳しようか」というのは、「どう弁明しようか」という意味で、どのように主を宣べ伝えるかは、聖霊の導きによって支えられるのです。
聖霊の働きは、今もなお、教会の歩みの中に続いています。それはとこしえに続くのです。どんなに罪が栄え、悪がはびこっているかに思えても、悪も罪もいつかは滅びるのです。終わりが来て、いつまでも続かないのです。
しかし主はとこしえにおられる。主の霊、キリストの霊である聖霊は、とこしえに共にいてくださるのです。
主イエスは、聖霊の働き、その導きを否定することのないよう厳しく戒めておられます。それは教会が教会として歩み続けるためです。
主イエス・キリストが私どもの罪の赦しのために、私どもに代わって神の審きをその身に受けられ、死から復活され、今も救い主として生きて働いておられるのです。
その主イエスの恵みの働きは、主の御言葉に伴う聖霊の働きです。
それを教会が拒むことはあり得ないのですが、しかし、主の恵みに立ち続けることができるよう、心して祈っていきましょう。
このあと聖餐を祝いますが、主のとこしえの命をいただき、罪の赦しを改めて受けとるときです。主の恵みに立ち続ける、しるしとして祝うのです。
「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」主が命を献げてくださった一人一人として、互いが主の御心にしっかりとおぼえられていることを信じて、礼拝の恵みに生き続けていくよう、祈り求めます。私どもの献げる礼拝を、主の霊が支えてくださっていることを信じて、その主の恵みの働きに深く信頼していきましょう。
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