【聖霊降臨節第21主日】
礼拝説教「つきない富を天に」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書 12:22-34
<讃美歌>
(21)25,4,132,528,65-1,28
今日与えられています箇所で、心に飛び込んでくるような御言葉があります。ご一緒に黙想して感想を述べあったら、どなたかが触れてくださると思います。それは25節です。
「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんな小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。」
主イエスは「寿命をわずかでも延ばすこと」を「こんな小さな事」と言われます。この言葉をどう受けとめたらいいでしょうか。主イエスは高いところから見おろすようにして「こんな小さな事」と言われているのではないはずです。主イエスは、私どもに命を与え養ってくださる主なる神として、私どもにはできないこともなすことができる救い主として語りかけておられるのです。
主イエスは弟子たちの傍らにいて、「こんな小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか」と語りかけておられます。ルカは、主イエスの語りかけを、今もなお教会に与えられている御言葉と信じて記しています。主イエスは、「こんな小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか」と語りかけられます。私どもはどう応えるでしょうか。
少し前の話になりますが、ある新聞に有名なトレーナーが書いておられました。それは、現代人は足の指が弱くなっているというのです。靴に頼りすぎているので、指で地面をとらえる力が衰えている。足の指が小さくなっているようです。確かにそうかもしれません。そのことを思いめぐらせながら、主イエスが「なぜ、…思い悩むのか」と言われたこととつながってきます。
主イエスが言われた、思い悩むことは、現実の上には立っているけれども、その現実という地面を、信仰の足の指がしっかりととらえていないで、指が浮いているようなことにたとえられるかもしれません。
「思い悩む」というのは、「思い煩う」とも訳せます。心が病むことにつながっています。心が病んで思い煩う姿は、「恐れ」として現れてきます。ですから主イエスは「恐れるな」(32)と語りかけられます。
ある神学者は「恐れる」という言葉は、逃げていく、心が逃げようとする意味合いがあると言います。
恐れないで生きていくことは、どういうことでしょうか。それは単純かもしれませんが、主イエスを信じて祈って生きていくことです。
心に指はないかもしれませんが、心が手のひらのように、指でしっかりと自らの現実を手のひらのなかに包むようにとらえて祈るのです。その祈る手のひらの指の力を、主イエスは強くしようとして、語りかけてくださいます。
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(32)
「小さな群れよ、恐れるな。」と聞いたとき、当時のルカによる福音書を受け取った教会は、ほんとうに小さな群れとして慰められたはずです。主イエスのいのちの御言葉として聞きとったのです。
巨大なローマ帝国の中で、はじめのころの教会は、吹けば飛ぶような小さな群れでした。社会的な力や財産はほとんどなく、そのようなものによっては何もできない群れです。しかしひたすら主なる神を信じて、主の祈りにあるように「御国を来たらせたまえ」と祈って生きたのです。
彼らはそのような礼拝共同体、信仰の群れでありました。しかし「御国を来たらせたまえ」と祈り続けることは、小さくは見えても、実に確かに神の御心を祈りの指でとらえていく力強さをもっているのです。
神の国は、神の恵みの支配です。神の恵みの支配に生きることは、主イエスが「恐れるな」と語りかけてくださる救いの恵みに身をゆだねていくことです。
あるいは主イエスを信じて、信仰の足でしっかりと立ち、その足の指で地面をとらえていくことであります。
ですから、神の恵みの支配に生きることは、主なる神を信じて礼拝を献げて祈っていくこと、その祈りの手の指を強くしていただいて、主の御心をとらえていくことです。
主なる神を信じて礼拝を献げて祈っていくことは、実にわかりきっているようでありながら、思い悩みの中にも、喜びが与えられていくのです。天の父が喜んで、天からの喜びを注いでくさるのです。
主イエスは「わずかでも寿命をのばすこと」を「こんなごく小さなこと」と言われました。では主イエスにとって小さくはないこととは何であろうかと思いめぐらせました。
それは私どもに救いを与えることではないでしょうか。父なる神の御前に立ち、その罪のためのさばきを身に受けることを、私どもに代わってなしてくださいました。すなわち十字架にいのちを献げてくださった。それは小さなことではないのです。
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」と約束されたとき、主イエスはすでに、十字架にいのちを献げて、救いの道をひらかれることを覚悟なさっておられたのではないか。
ルカの教会も、神の国の恵みに生きていることを感謝するときに、主イエスの十字架による罪の赦しを感謝して祈り続けたはずです。
神の国は、神の恵みの支配です。その恵みは、限りなく広がっているのです。私どもはそのような主の働きをすべて知り尽くすことは到底できませんが、主を信じて、すべての人に主の恵みがあるように祈り続けるのです。
キリスト教会はいつも、小さな群れです。
いつの時代も、世にあっては小さな群れです。
私どもは絶えず、神の赦しと助けを必要としている小さな群れであります。しかしそのような小さな群れとして生きるときに、思い悩みから解かれて、天からの喜びが与えられ続けていくのです。天からの喜びは、私どもの中には収まらず広がっていくことを信じていきましょう。
Kommentare