【聖霊降臨節第14主日】
礼拝説教「とこしえの言葉」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書 1:1-4
<讃美歌>
(21)26,19,51,55,65-1,85
今日から、ルカによる福音書を学びはじめます。
私どもは、印刷された聖書を一人一人手にして礼拝を献げていますが、ルカが福音書を記した当時には、全く考えられなかったことです。最初に書いた手紙を受けとった教会が、丁寧に書き写して次の教会に渡したと考えられています。ひと言ももらさず書き留めていきました。そして、文字を読める人は多くはなかったので、朗読されるルカによる福音書を全身で受けとめ、暗記するように心に刻んでいきました。一字一句もらさずに聞いたのです。ですから、私どもも、少しずつではありますが、ルカによる福音書の最初から最後まで、思いを深めていきましょう。
福音書は四つあるのですが、マタイ、マルコ、ヨハネは、それぞれに当時の有名な弟子の名前が付されています。四つの福音書の中で、マルコによる福音書が一番最初の福音書だと考えられています。たとえば、マルコによる福音書を、最終的にまとめたのはマルコの弟子や当時の教会であったと思われますが、マルコの名前を付しているのです。これは、その当時よく用いられていた方法です。
しかし、ルカは当時の初代教会で有名であったわけではありません。その名前を付していることは、ルカが書いたと考える学者も少なくはないようです。いずれにしても、使徒言行録とルカは同じ人が書いたと考えられています。整った、すぐれた文体で記され、その特徴が共通しているからです。
使徒言行録に、16章の途中から、「わたしたち」(16:10)という言葉が記されます。それまでは、「パウロは」と言っていた言葉が、パウロも含めて「わたしたちは」となるのです。
どうしてかというのは、おそらく、そこからルカがパウロたちに同行したからであろうと考えられています。なぜ同行したかというと、パウロがルカに福音を「伝えた」からではないかと考えることができます。
ルカによる福音書の1章1節に「わたしたちの間で実現した事柄」とありますが、それは、主イエスの救いが実現したのであり、その福音に生かされて聖霊により教会が生みだされ、罪の赦しの救いの恵みに生きる信仰生活がはじまっていることです。
その「実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。」(1)
おそらく、ルカが福音書を記した頃には、マルコ福音書は書かれて回覧されていたことでしょう。それ以外にも、福音書記者が共通して参考にしたと言われる、Q資料というものがあったのではと言われます。今の四つの福音書という形では残らなかったものが、ほかにもあったということです。
「物語を書き連ねようと」という「物語」は、作り話ということではなく、実話の物語です。
しかし、その「物語」は、「目撃して御言葉のために働いた人々が、わたしたちに伝えたとおりに」過去に起こっただけではないのです。今もなお、生きて働いておられる主イエスが、私どもの間に、同じような教会の物語を起こして、主の福音に生かしてくださるという意味での「物語」です。主イエスによって与えられる教会の物語は、今もなお続いているということです。
聖書の言葉を聞きますと、不思議な表現に出会うことがありますが、「御言葉のために働いた人々」というのは、どういうことですか、と質問なさる方もあるかもしれません。「御言葉のために働いた」というのは、「主イエスのために働いた」というのと同じ意味です。
主イエスは、生ける神の御言葉です。その語られたとおりに、御言葉を生きて見せてくださった。主イエスは、福音の御言葉が実現した救い主であり、神の御言葉そのものと言うことができます。
ついでにお話ししますと、新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、旧約聖書の言葉(ヘブライ語、ごく一部アラム語)の意味合いを受け継いでいると言われます。なぜかと言いますと、ユダヤ人は当時、通常はヘブライ語の親戚の言葉であるアラム語を話していたからです。主イエスも通常、アラム語で話されていたと言われます。宗教的指導者たちはヘブライ語を用いていたようです。ですからユダヤ人たちは当時、ヘブライ語を理解することができたと言われます。また、弟子たちが新約聖書を記したときには、旧約聖書を基盤として書いていきました。ですから新約聖書も旧約聖書の言葉の意味合いを受け継いでいるのです。
聖書で「御言葉」と訳されています言葉は、旧約聖書では「ダバール」という言葉です。「ダバール」は普通、「言葉」と訳されますが、もう一方で「出来事」とも訳されます。それは、神の御言葉は必ずその語られた御言葉「ダバール」の通りに、御言葉の「出来事」を起こすからです。ですから、「御言葉のために働いた人々」というのは、「主の出来事のために働いた人々」とも理解することができるのです。
ルカがこの福音書を献呈したのは、「敬愛するテオフィロ」でした。これは、いまでも献呈の言葉を記しますが、当時もよくあったようです。
問題は、テオフィロが、だれかということです。結論から言いますと未だに不明です。しかし昔から、推測がなされてきました。
その中に、こんな言い伝えがあります。それは、ルカは医者であったのですが、奴隷であったと言われます。当時は、医師や学校の教師も多くは奴隷でした。少し大まか過ぎる言い方ですが、いわゆる労働者は、奴隷であった。あるときルカは、主人テオフィロの重い病を治すのですが、それに感謝して、テオフィロは、ルカを自由の身にしてやった。そのことに感謝して、ルカが愛するテオフィロのために、この福音書を記したというのです。美しい言い伝えです。もちろん、ルカは、テオフィロだけのために書いたのではありません。広く読まれることを前提に書いたのです。
テオフィロは、すでに主イエスの福音を聞いていたようです。「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」(4)とあるように、すでに主イエスの救いについて聞いていました。おそらく求道者と呼ぶことができたのではないかと思います。
「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」これは、ルカの真実な思いです。主イエスの福音を伝える、そのために生きている喜びは、キリスト者に与えられている喜びです。キリスト教会にとっても、心からアーメン(真実、そのとおりです、という意味)と告白する言葉だと受け継いできたのです。
「確実なものであることを」私どもが、自らの経験や能力で判断するという意味ではないのです。むしろ、主の聖霊が、ルカ福音書の御言葉と共に働いて教えてくださるのです。そして、御言葉に伴う「救いの出来事の物語」を与えて、「確実なものであることを」教え続けてくださるのです。
少し先ですが、11月27日から、クリスマス礼拝に備えるアドベントに入ります。洗礼や信仰告白に導かれる、主の救いの出来事が起こるように祈っていきましょう。ひとりの方に主の福音が確かに届くというのは大きな励ましです。それは、ひとりの方に届くということは、すべての人に届くはずだと信じるからです。礼拝に集うお一人お一人は、ルカによる福音書が語る、主の救いの出来事を経験して、恵みにあずかった方々です。主の救いが「確実なものであることを」共に味わい続けていきましょう。
御言葉に伴う「物語」は、すでに私どもの教会に与えられているのです。ますます礼拝の恵みに生きて、御言葉に伴う「物語」を与えられ、その喜びを持ち運ぶ私どもとさせていただきたいと祈り願います。
Comentarios