【聖霊降臨節第17主日】
礼拝説教「信じてまかせる」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書 1:26-38
<讃美歌>
(21)26,8,142,402,65-1,85
今日の箇所は、マリアに救い主誕生の知らせが届いた有名な箇所です。当時の人々は、救い主がお生まれになることを待ち望んでいました。しかしマリアは、救い主の誕生の預言が、自分を通して実現することを、天使から聞きました。それは、とらえきれないことではないでしょうか。神の言葉を伝えた天使ガブリエルであっても、すべてを見通していたわけではなかったはずです。神の領域があるからです。私どもも、とらえきれないことであっても、主の導きにゆだねることができるよう、祈り求めていきましょう。
マリアは、天使を通して神の語りかけを聞きます。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」
戸惑いと恐れを抱くマリアに、主なる神からの御言葉によって信仰が注がれていったのです。マリアに与えられた神の働きかけに、私どもも思いを深めましょう。
マリアは神から恵みをいただきました。
「恵み」と訳されている元の言葉は、「カリス」です。神から賜るものという意味の語幹をもっています。
同じ語幹をもつ言葉に「カラ」があり、通常「喜び」と訳されます。
聖書では、恵みと喜びは、仲間の言葉で、共に、上より神からいただくものという意味あいが込められているのです。
恵みは、私たちの側にそれをうける理由がないのに、神様がその愛により与えてくださるものが恵みです。その意味では、主イエスの救いこそが恵みです。
主の恵みに生きるところに、主からの喜びもまた満たされていくのです。
マリアの恐れは、主の恵みのうちに、やがて、喜びへと導かれていきました。
マリアは、天使から「その名をイエスと名づけなさい」と命じられます。
「イエス」という名前は、「主は救いたもう」という意味です。
旧約聖書では「ヨシュア」です。日本語ではずいぶん違いますが、「ヨシュア」は、もとの発音では「イェシュア」となります。マリアや当時のユダヤ人たちは、普段はアラム語(ヘブライ語の親戚の言葉)を話していたと言われます。アラム語ではヨシュアは「イェシュ」となるようです。これは想像でしかありませんが、天使はマリアに「その名をヨシュア(イェシュ)」と名付けなさい、と語ったのではと思います。
マリアは、人となって来てくださった救い主の母となるのですが、救い主のことを「キリスト」と言います。ですから、イエス・キリストとは、イエスが救い主(キリスト)いう意味にもなっています。主イエス・キリストと言うことがよくありますが、主とは、神様のことで、信じて従うべきお方という意味で主と呼ぶのです。
先ほど、とらえきれない御言葉をマリアが聞いたと申しました。聖書全体を貫いているのは、救い主の預言です。しかし考えてみれば、救い主の誕生の預言は、人にはとらえきれない御言葉です。
救い主誕生の預言は、主なる神が、私どものひとりとなってくださるのです。そのことは、到底とらえることはできないのです。私どもは神に造られた被造物ですが、救い主である神の御子は造られたのではないのです。
主イエスは、天地創造のはじめから神の御子であり、父なる神とひとつなるお方であって、同じ主なる神であります。
その神の独り子が、私どもと全く同じ人となってくださって、主なる神とはどのようなお方であるかを生きて見せてくださいました。神の御言葉を語り、それと共に生ける神の御言葉として生きてくださったのです。
とらえきれない救い主の誕生を、天使は語りかけます。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。
だから、生まれた子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(35)
マリアはすべてをとらえきれなくても、神が働いてくださることを教えられたのです。
天使は神の言葉を伝えました。
「神にできないことは何一つない。」
とらえきれなくても、主を信じてゆだねる信仰が与えられるのです。
私どもはいつも教会の歩みが主に導かれることを祈り求めていますが、「神にできないことは何一つない」との御言葉を信じていくよう導かれています。御心でありますなら、主よどうかあなたが働いてくださいと祈り求めていくことができるのです。
マリアは、主の御言葉によって導かれ、信仰を告白しました。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」信じてゆだねる恵みに生きる、喜びの告白です。
マリアに与えられた恵みは、教会に今もなお与えられている恵みです。マリアは、主の導きを受けたときに、最初は恐れと戸惑いでしたが、やがてそれは、主の御言葉によって喜びの告白に変えられました。
主は私どもをも、信じてゆだねる恵みに招き入れ、御言葉による喜びへと導いてくださるのです。
「お言葉どおり、この身になりますように。」と主に告白しつつ歩んでまいりましょう。
マリアに与えられた、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」という主の語りかけは、代々の教会が受け継いできた恵みの御言葉です。主なる神が聖霊として共に生きてくださり、いと高き方の力が私どもを包むのは、礼拝の中で御言葉によって経験している恵みです。あるいは、礼拝から始まる教会生活で味わっているのです。
教会生活の中で、仲間が電話をくれたり、いっしょに祈ったりすることは、とても心励まされて、主の恵みによる力に支えられていくことです。
思いがけず試練を経験される仲間を思って、その試練の中で守られるように祈ります。少しでも痛みが和らぎ、回復が与えられると、共に喜びます。しかし私どもの思いにはるかにまさって、主が私どもを受け入れて喜び、共に生きてくださっているのです。主は共に生きてくださっています。
主の御言葉を信じて生きていくときに、主は聖霊としてお働きくださり、私どもを包むように導いてくださるのです。
御言葉に伴う聖霊のお働きによって、「お言葉どおり、この身になりますように。」と主に告白しつつ、共に歩んでまいりましょう。
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