【聖霊降臨節第15主日】
礼拝説教「時が来れば」
願念 望 牧師
<聖書>
ルカによる福音書 1:5-25
<讃美歌>
(21)26,14,155,532,65-1,85
先週の礼拝後の三部会で、クリスマスをどう祝うかということが話題になっていました。コロナの状況によって、おそらく会食はできないだろうし、依然として例年のような計画は立てにくいことがあります。しかし幸いなことに、不自由な中でもできることをなしていくことがゆるされています。礼拝生活が主に守られてここまで来ることができました。これからも祈りつつ主にゆだねて、いろいろと意見を出し合いながら、長老会によってまとめられていくことを主の導きと信じていきましょう。
不自由さの中で導かれていくことでは、今日の箇所に記されているザカリアは、まさに与えられた不自由さの中で、主に導かれていきました。私どもにも、ザカリアに与えられた導きが同じようにあることを信じて思いを深めてまいりましょう。
クリスマスをどう祝うかを先週話し合っていたと言いました。クリスマスを祝う準備の1ヶ月ほどをアドベントと呼びます。アドベントというのは到来という意味があって、主が私どものひとりなってお生まれくださったことを到来と呼んで祝うのです。しかし主の到来は過去のことだけではなくて、現在の私どものところに来てくださる到来の意味もあります。ですから、クリスマス礼拝に備えるこの時季だけなく、日頃の礼拝生活においても、私どもは意識せずに、主が到来してくださることを祈り求める、アドベントの時を過ごしています。
週のはじめの主日礼拝に備えることもまた、御言葉の語りかけを祈り求めて待ち望む、アドベントの歩みであります。礼拝に備えて、週の初めの日に集ったときに、礼拝で祈りますが、主がその祈りに応えて働いてくださることを願います。そのことは、祈りに応えて主が働いてくださり、私どものところに到来してくださることを待ち望んでいくことです。その意味では、礼拝から始まる祈りの生活はアドベントの生活とも言えるのではないでしょうか。
礼拝の前には、沈黙の時を持ちます。礼拝の始まりに、オルガンの前奏があります。このときは、黙祷の時でもあります。黙祷は声を出さずに祈りをささげることですが、礼拝前の黙祷は、必ずしも心の中で言葉を発しての黙祷と言うよりも、沈黙の祈りです。沈黙のうちに、私どもを礼拝へと招き、捉えてくださる主なる神にゆだねていく時です。
前奏が始まる礼拝前にどう過ごすかということも大切です。ある意味で、その教会の姿がよくあらわれるとも言えます。礼拝前には、沈黙で過ごすのが基本です。ただ黙って過ごすというよりも、祈りの心で、礼拝の恵みを待ち望むのです。主が私どもに語りかけてくださるのを、心静めて待っていくということです。
説教を共に聞く時には、私どもは沈黙して心を傾けます。共に静かに御言葉に耳を傾けるそのことを通して、主の聖霊が働いて、私どもに御言葉を聞きとらせて、御言葉による恵みを受けとらせてくださるのです。
私どもは、礼拝で主なる神に沈黙を献げているのです。そして、私どもが神に献げる沈黙は、御言葉による喜びとなって実を結ばせてくださるのです。
説教者もまた、まず御言葉の前に沈黙が与えられます。
あえて説教を語る者とされていますが、語る者というよりは、聞く者であります。考えてみますと、説教準備は、ひたすらに沈黙が与えられる時でもあります。祈って準備することもそうですし、御言葉を黙想して、その恵みを思い巡らせることも沈黙の時です。そうして、やっと説教の語りかけが与えられることは、主が沈黙の先に、御言葉による喜びを結ばせてくださる恵みです。
もうずいぶん前ですが、ある修道院で、牧師研修をした時に、そこは沈黙の修道院でした。もちろん、牧師たちには沈黙で過ごすことは求められませんでした。そうでないと、言葉を交わして研修を受けることができません。
ただ、沈黙の修道院に来られるカトリック教会の方たちは、沈黙のルールを守って過ごされるそうです。どういうルールかと言いますと、朝起きてから、互いに言葉を交わさないというのです。夕食時になるまで、互いに会話せず、口から発する言葉は、礼拝で神に献げる讃美と祈りの言葉のみで過ごすということです。考えてみれば、それは素敵なことではないでしょうか。そもそも私どもに与えられている言葉を発する能力は、何よりもまず、主をたたえるために用いられていくべきだということではないでしょうか。
ザカリアも、主なる神から沈黙を与えられました。
ザカリアは、聖所で祈る役目が与えられます。くじを引いてその役に当たったのですが、それは、一生に一度あるかないかの役目です。
もしかしたら、年老いていたザカリアであっても初めてのことだったかもしれません。手順を間違えないように緊張したでしょう。しかも天使があらわれて、ザカリアは「不安になり、恐怖」を抱くのです。天使は神の言葉をザカリアに伝えました。「恐れることはない」(13)と。
その沈黙の期間は、十ヶ月あまりです。なぜ沈黙を与えられたかと言いますと、ザカリアの祈りが聞かれて、子どもが与えられて預言者となっていくことを主から告げられたのですが、それを信じられなかったからです。しかしその沈黙の期間は、ザカリアには信仰が養われる時でした。
沈黙が解けたときに、ザカリアが発した最初の言葉は、「ほめたたえよ」という主に向かっての讃美の言葉であります。
「主なる神は、ほめたたえられよ」と信仰の告白をしたのです。
「恐れることはない」と語りかけられたザカリアは、長い沈黙の後、主に向かって「ほめたたえよ」(1:68)と応答することができました。ザカリアに与えられた主の御言葉による導きは、私どもへの語りかけでもあります。「恐れることはない」と語りかけられ、礼拝で主の導きを受ける時に、頭では分かっていてもすぐには心がついていかないことがあります。しかし、主は待ってくださいます。私どもに沈黙の期間を与えてくださるのです。大切なのは、礼拝においてそうであるように、主に心を向けて沈黙していく。主よ、お心にかなうように導いてください、と祈る心で沈黙していくのです。
ザカリアは沈黙の内に、時が来れば必ず実現する主の働きかけを、しだいに信じることができるようになりました。そして喜びの時を迎えたのです。
「恐れることはない」と、主は語りかけてくださっています。主の御心は必ず実現することを信じて待ち望んでいきましょう。
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