【聖霊降臨節第10主日】
礼拝説教「平和の食卓」
願念 望 牧師
<聖書>
コリントの信徒への手紙 一 11:23-26
<讃美歌>
(21)26,18,371,78,64,27
今日は、平和聖日の礼拝を献げています。日本キリスト教団では 1962 年から 8 月の第 1 日曜日を平和聖日と定めて、平和を祈り求めて礼拝を献げてきました。今年で平和聖日 60 年を迎えたことになります。礼拝を共に献げている方の中には、平和聖日が定められる前 から、主なる神に祈りをささげ、主の平和が実現することを祈り求めて来られた方もおら れます。
8 月は第 2 次世界大戦中に、長崎や広島に原子爆弾が投下されたことや終戦を迎えたこ とを、思い起こすときでもあります。戦中戦後の厳しい経験を思い返しておられる方もあ ると思います。
現在の世界を見渡しますと、とくにウクライナとロシアの間での戦火が、まだ収まらな いことは大きな痛みです。世界のキリスト教会が、ウクライナでの人道支援のために働い ていますが、そのための募金を 7 月末で送金しました。教団のホームページに案内があり ますから、個人でも送金することができます。平和が実現するように祈っていきましょう。
今日は、平和聖日に聖餐を予定していて、その聖餐を主イエスが制定してくださったこ とを聖書から学んで、思いを深めることにしていました。残念ながら、感染状況によって、 聖餐を執り行うことはできませんが、同じような仲間が世界には大勢おられることをおぼ えて、主が届いてくださるように祈っていきましょう。
平和という言葉は、元々の聖書の言葉では、旧約聖書でシャロームという言葉が用いら れています。シャロームは、平安と訳されたりしますが、日本語に訳しきれないと思いま す。私どもは、さまざまに欠けを持つ者です。体においても病気になることがありますし、 心が不安を抱くこともあれば、思いと行いによって罪を犯すこともあります。生活の中で も、神の助けを必要としているのではないでしょうか。私どもが持っている、さまざまな 欠けに対して、神様が助けを与え、赦しを与えて導き、満たそうとしてくださる働きをシ ャロームと呼ぶことができます。ですから、シャロームは神の助け、とか神の救いと言う ことができます。また、私どもに受けとる理由や資格がないのに、神様が与えてくださる お働きですから、シャロームは神の恵みでもあるのです。
神の恵みの手段について、ある有名な神学者が今日の箇所の説教の中で、このように語 りかけています。神の恵みの手段というのは、神の恵みはすべてを知ることができないの ですが、私どもにもわかるように、五感で受けとめられる手段を、神様が用意してくださ ったということです。
「神の恵みを受ける手段は、いくつもあるように思われるのであります。自分の生活の中 に起こる出来事を通して、恵みが分かる、ということもありましょう。しかし、そういう ものは、事情によって変わることがあるのです。その中で、いつも変わることなく恵みを 伝えてくれるものは、主がお定めになったものでなければなりません。それが、最後の晩 餐であり、聖餐なのであります。あるいは、洗礼も、その中に入れることができましょう。 そして、聖餐において与えられていることを、言葉にしてあらわす説教も、広い意味で、 恵みの手段である、といってもいいでありましょう。」
「そして、聖餐において与えられていることを、言葉にしてあらわす説教も、広い意味で、 恵みの手段である」と言われていますことは、さらにこのように言うことができると思い ます。聖餐を執り行わない礼拝においても、聖餐において与えられいることを、言葉に表 す説教が、その恵みを伝えていくということです。ですから、今日の礼拝では感染状況に より聖餐は執り行いませんが、聖餐において与えられいることを、言葉に表す説教によっ て、その恵みを受けとっていくことができるのです。
聖餐において与えられていることとは、どういうことでしょうか。そのことをまさに、 今日の箇所が伝えているのです。聖餐は、主の救いを確かにされるとき、それは、主の救 いの命と赦しをいただいていくことによって確かにされるということです。
主イエスが聖餐を定められたときに、パンを与えて、「これは、あなたがたのためのわ たしの体である。」(24)と言われました。お定めになったのは、最後の晩餐のとき、十字 架に「引き渡される夜」(23)のことです。
パンを主の体としていただくということは、それは、主の聖なる命をいただくことでも あります。あるいは、主の聖なる命につながって生きるようになるということです。
主の聖なる命につながるのは、主の救いを受けてそうなるのですから、主の救いを確か にされることでもあります。
またぶどうの杯を主は与えて、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約 である。」(25)と言われました。「わたしの血によって」というのは、十字架の上で流 された血のことです。それは、私どもに代わって、主が父なる神の裁きを受けてくださっ たものです。ですから、主イエスを救い主と信じる者は、主が受けられた裁きによって罪 を赦されて救いをいただくことが、恵みとして与えられるのです。そのことを主イエスは 「新しい契約」と呼ばれました。難しい表現ですが、新しいとは、旧約聖書において、神 様がまず旧約の民イスラエルと結ばれた契約に対しての新しさです。すべての者にもたら されるものとなったのです。また、契約というのは、神様が私どもと結んでくださる契約 ですが、とこしえに確かに結んでくださる約束という意味での契約です。
主の確かな救いの約束を、礼拝ごとに、「聖餐において与えられていることを、言葉に してあらわす説教」を通して、私どもは受け取り続けているのです。
ここで、「わたしの記念としてこのように行いなさい。」(24、25)と重ねて言われた 御言葉に触れたいと思います。
「わたしの記念として」というのは、単に思い出しながら、という意味ではありません。 ここで言う「記念として」と言うのは、主を救い主と信じて、主がなさったことを思い起 こしていただくという意味での「記念として」です。ですから、聖餐は、洗礼を受けてからあずかって、はじめて意味を持つものです。幼児洗礼を受けた者も、主イエス・キリス トを救い主と信じる信仰を言い表す信仰告白式を終えて、受けとるのです。このことは、 代々の教会が受け継ぎ、日本キリスト教団が教憲・教規と言って、教会の定めとして大切 に受け継いできたものです。
しかし、信仰告白式や洗礼は、決して聖餐を受けとる資格ではありません。だれも、主 の救いを受けとるのにふさわしい者はいないのですから、どこまでも主の恵みによって、 聖餐をいただくことを忘れてはなりません。
そのことはまた、誰も、主の救いを受けるのに、ふさわしい者はいないということです。 神の恵みによって、私どもは救いの命と罪の赦しをいただき続けるのです。それは、礼拝 において、説教を通して語りかけ続けられている恵みであります。
主の救いの命を受けとり、罪の赦しをいただいて、神の平和(シャローム)を生きるよ うになることは、すでに礼拝からはじまっているのです。礼拝が平和を生み出していると いうのは、私どもが、主イエスに赦された者として、自分もまた人を赦して生きるという ことです。主が赦して受け入れてくださったのですから、自分を受け入れ、また周りの人 を受け入れて生きる、そのこともまた、主が与えてくださる恵みのお働きによると信じて いきましょう。
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