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2022年8月28日(日)

【聖霊降臨節第13主日】

 

礼拝説教「朽ちないもの」   

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 16:19-20


<讃美歌>

(21)26,4,166,405,64,27


 マルコによる福音書の講解説教も、今日で巻末まで終えることになります。最初にマルコ福音書の1章1節から説き明かし始めたのは、2022年の4月ですから、1年半近くかけて学んだことになります。その間、さまざまなことが私どもの礼拝生活の中に起こってきました。しかし、この福音書が告げている福音の確かさに生かされてきた中で経験してきたのです。礼拝で共に聞く御言葉の慰めに導かれてここまで来たのです。その恵みはなおも続いていくことを信じて、主の語りかけに思いを深めましょう。

 1章1節には、「神の子イエス・キリストの福音の初め」とありますが、その初めは代々に受け継がれて私どもにも至っているのです。最初にマルコ福音書が記されてから、これまでにおびただしい人々が、この福音書を通して、主イエス・キリストの福音にふれてきました。ふれてきたというよりはむしろ、福音の言葉にふれられて、動かされてきたのです。

 著者と言われるヨハネ・マルコは、「永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広め」(20)たのです。「朽ちることがない」というのは、古びることがない福音です。私どもを生かし、主イエスの救いに生きる喜びに動かし続けるのです。朽ちて役に立たなくなることがなくて、永遠の救いに導き続けるのです。「朽ちることがない」のは、それが「聖なる」ものであって、憐れみ深い神によって語り出されたものであるからです。

 マルコは、この福音書を過去の話として書いたのではなくて、復活された主イエス・キリストが、今もなお同じように導いてくださっていると信じて記しています。ですから、マルコ福音書の語りかけは、今も生きた御言葉として響いているのです。その中心的な御言葉は1章15節の語りかけです。主イエスは、憐れみ深い主なる神御自身として、この福音書を通して語っておられます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:15)

 神の時が満ちた、ということは主イエスによって私どもが救いを受けることができるようになったということです。だから「悔い改めて福音を信じなさい」と主イエスは強く命じて招かれます。「悔い改める」というのは、聖書の元々の言葉の意味合いでは神へと向き直ることです。自分で改める力を見いだせないときにも、なおも憐れみ深い神を信じて仰ぐことが、聖書の語る悔い改めです。そのように神へと向き直って祈るよう、主は招いてくださっています。

 この礼拝こそが、神へと向き直る悔い改めのときそのものです。礼拝は、神へと向き直って、そこで語られる主イエスの福音を信じて生きていくのです。主イエスは、いまもなお、礼拝で朽ちることがない福音を広めてくださっています。

 最後のところに、「その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることがない福音を広められた」とあります。不思議な書き方です。「彼らを通して」というのは、どういうことでしょうか。19節に、主イエスは、天に帰られて「神の右の座に着かれた」とあるのですから、絶えず、私どものために、教会のために執り成して祈って支えてくださっています。主イエスが私どもに先立っていつも祈っていてくださるのは、私どもの確かな心の支え、祈るときの心のよりどころであります。

 その主イエスは、天に上げられて「神の右の座に着かれた」とあるのに、また戻って来て、弟子たちと共に働いておられるように20節には記されています。「弟子たちは出かけていって至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってお示しになった」とあります。主は彼らと共に働き、彼らを通して、すなわち教会を通して語られる福音の言葉を、朽ちない神の言葉として、語り続けておられるのです。それは、主の働きであります。聖霊の働きです。御言葉に伴う、神の霊、キリストの霊である聖霊の働きであります。主は天におられ、また地におられて、主は私どもと共に働いておられるのです。

 

 かつて、水野源三さんという詩人が、朽ちない福音の喜びを数多くの詩に歌われました。キリスト者の詩人です。体が不自由で、話せない水野源三さんは、まばたきで意志を伝えて詩を一字一字綴っていかれました。まばたきの詩人とも呼ばれます。

「ただ感謝するだけ」という詩があります。

詩の前半は、

「私は 家族 人

 主のために何も出来ない」とはじまるのですが、

その後半は

「主 人 家族の豊かな愛を

 ただ感謝するだけ ただ感謝するだけ」と結ばれています。


その詩の終わり方は、「ただ感謝するだけ」と開かれて終わっているのです。

その喜びはこれからも続いていることを告げています。


 そのような、ひたすら豊かな愛を感謝して共に生きていく喜びは、マルコ福音書が告げた、朽ちない福音の喜びにつながっていると思います。

「その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることがない福音を広められた。アーメン」


 「彼らを通して」という言葉に、私どもも加えていただいているのです。無償で神の愛をいただくことを、ただ感謝するほかはない私どもです。その喜びをもって献げていく礼拝から、神の愛の広がりがあることを信じて、主イエスの福音の喜びに生きていきましょう。


 最後に、先週の箇所で、触れることができなかった御言葉を思い巡らしたいと思います。それは、17節「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。」という主イエスの御言葉です。悪霊を追い出すことは、初代教会では普通に行われていたようですが、ある神学者によれば、現代の教会ではその働きを終えて、新しい言葉を語ること、すなわち福音の言葉を告げていると言われます。もちろん、悩む方のために祈り、病のいやしを祈ることを常にしています。しかし、しるしとしては、新しい言葉である、主の福音の御言葉を伝えて礼拝を献げているのです。礼拝で御言葉が語られ、主イエスの福音が告げられているのは、神様が与えてくださった、しるしであることは、なくてはならない賜物としてこれからも受け継いでいくのです。

 しかも、しっかりと思いをとめるべきことは「わたしの名によって」という言葉です。「わたしの名によって」というのは、語っておられる主イエスの名によって、ということです。聖書で神様の名前は、神様そのものを表します。そして、神の御名は主なる神様の言葉やお働きをも意味する言葉です。ですから、「わたしの名によって」というのは「わたしの言葉と働きによって」ということで、主イエス・キリストがこの礼拝を支えてお働きくださり、御言葉を語りかけ、救いを与えようと働きかけてくださっているということです。もう一つ、主の名によって、というのは、主の御名によって祈ることが与えられているのです。「はっきり言っておく。あなたがたはわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。・・・願いなさい。そうそれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16:23-24)主の名によって祈ることは、自分の名前で祈るようにして、自分の功績と引き替えで祈りを聞いてもらおうとするのではないということです。主の名を用いて祈るように教会は導かれてきました。何かの届け出にたとえるなら、祈りの届け出の実印は、自分のものではなくて、主イエスの実印を用いて祈ってきたのです。祈るときに「主イエスのお名前によって祈ります」と祈るのは深い意味があります。

 いずれにしても、主の名によって献げられる礼拝の恵みを感謝して伝えていきましょう。繰り返しになりますが、主の名による礼拝は、主の御言葉とお働きによる礼拝であります。礼拝のときに、祈りの届け出を心の中で書いて主イエスの名前の実印を押して、主なる神に提出して帰りましょう。心の重荷を主が共に担ってくださることを信じていきましょう。



 
 
 

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