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shirasagichurch

2022年8月21日(日)

【聖霊降臨節第12主日】

 

礼拝説教「新しい言葉」   

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 16:12-18


<讃美歌>

(21)26,19,57,402,64,27


 今回ともう一回で、1年半ほどに及ぶマルコ福音書の学びを一通り終えることになります。しかし、マルコ福音書がどのようにその最後のところを書いているのかを学ぶことは、私どもには大きな意味があります。そこに重要な語りかけがあるからです。受け継がれてきた大切な語りかけに、私どもも耳を傾けていきましょう。


 マルコ福音書の最後は、16章8節の「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」が本来の結びであると言われます。そのあと、どうなったのかという問いかけを聞く者に与えていったん閉じられているのです。

 そしてその後の教会がしばらくして、当時もう手にしていたであろう他の福音書を用いて、結び1、結び2を書き加えたと言われます。


 書き添えた最初のところに強調されているのは、聞いても信じることができなかった弟子たちの姿です。マルコ福音書はそのような弟子たちの姿に、自分たちを重ね合わせ、主イエスはそこから始めてくださったことを証言しているのです。

 主イエスが弟子たちの「不信仰とかたくなな心をおとがめになった」(14)ことに、主イエスの深い神の愛による働きを信じて記しているのです。ただ厳しくしかっておられるのではなくて、彼らのかたくなな心を砕いて、信仰を授けていかれた恵みを信じて記しているということです。

 その同じ恵みは、今もなお、私どもの教会にも受け継がれているのです。


 礼拝堂で葬儀が執り行わることがありますが、この2年ほどは感染症対策のために自由に集うことができません。このマルコ福音書を学びながらの1年半の間にも、葬儀がごく限られた関係者と家族のみで執り行われました。しかし、この福音書が書かれた当時の教会は、たとえ少しであっても花をかざって礼拝堂で仲間を天に送るようなことはできなかったと思われます。迫害が厳しかったからです。しかし自分たちが献げる礼拝が、天にあるふるさとでの礼拝とつながっていることを信じて生きていきました。復活された主イエスが、なおも自分たちと共に働いてくださっていることを信じていったのです。


 マルコ福音書はその結びのところで、それからどうなったのかという問いかけと共に、もう一度冒頭の言葉、「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)という言葉に始まる福音書を聞き直すよう期待していると言われます。それは、死からよみがえられた主イエスが、同じように働いてくださることを信じることができることを伝えているということです。復活された主イエスが再び十字架におかかりになることはありませんが、マルコは福音書を過去の物語として書いているのではないのです。今もなお生きておられる主が、私どもと共にいてくださり、福音書にあるような歩みをしてくださると信じて記しているということです。ある英語の訳は、「ここに始まる、神の子イエス・キリストの福音」という意味に訳しています。(Here begins the gospel of Jesus Christ the Son of God、New English Bible )私どもも、主イエス・キリストの福音を生きる教会の歩みを重ねていくよう祈りつつ励んでいきましょう。


 マルコ福音書全体をもう一度読み返すことはしませんが、思い返しますときに、心に響く御言葉のひとつは、「なお、道を進まれるイエスに従った。」(10:52)という言葉です。当時バルティマイという人が、目が見えるようにしていただいて、「なお、道を進まれるイエスに従った。」のです。

 しかしマルコ福音書を記した当時の教会は、その結びにおいても、自分たちが福音書の後日談として、「なお、道を進まれるイエスに従った。」ことを信じて記しているのです。充分に見極められないで、はっきりと見ることができないようなときにも、目を閉じて祈り礼拝の恵みに生きて、自分たちの先を行かれる主イエスに従っていきました。主イエスが彼らの目を開いて道を示し導いてくださったのです。


 主イエスはお命じになりました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(16:15)

 福音はどのようにして宣べ伝えられてきたのでしょうか。もちろん、人から人へと伝えられたことでしょう。家族の中で信仰が継承されることも大切な道筋として受け継がれてきました。しかし福音が宣べ伝えられてきたその中心、福音伝道の源には礼拝が、主が働きかけてくださる恵みの時として用いられてきました。主の恵みの時として、主なる神が礼拝を支えてくださってからこそ、今に至っています。

 私どもも、この礼拝によってこそ、主イエスの福音を伝えて伝道しているのです。この礼拝からはじまる教会生活の喜びに生きて、その喜びを持ち運ぶことに私どもの大きな使命があるのです。


 16節に「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」とあります。「滅びの宣告」というのは心に引っかかります。どう捉えたらいいのでしょうか。はっきり言えることは、弟子たちは決して、滅びを伝えたのではないということです。恐怖や裁きを伝えて信仰に招いたのではないのです。恐怖や裁きで人をがんじがらめにするのはカルトのすることかもしれません。むしろ主イエスの弟子たちは、信じることができないで滅びに向かっていた自分たちのようなものが、主イエスの救いによって滅びることがない者としていただいた喜びをこそ伝えたのです。だからあなたも信じて洗礼を受けるように、と招いたのです。

 当時の教会は、手で蛇をつかんだり毒を飲んで死なないことを人々に見せたりして驚かせるというようなことをしたのではありません。人間的には乗り越えられないところを乗り越えて、主イエスが彼らと共に働いてくださる約束に生きていきました。それは私どもも同じであります。初代教会が、主の特別な賜物に生きて、悪霊を追い出したり病気を癒やすというような、いわゆる奇跡を行ったことはあったようです。それらは時代と共に薄れていますが、もっとも大切に受け継いでいる奇跡は「新しい言葉を語る」という、主イエスの恵みによる出来事です。これは、明らかに、主イエスが教会を通して、礼拝において聖書の御言葉によって語りかけてくださり、その御言葉に養われて生きていくことであります。

 「神の子イエス・キリストの福音」の言葉は、人には生み出せなかった「新しい言葉」です。その「新しい言葉」である主イエス・キリストの福音を伝える礼拝の恵みを感謝していきましょう。これからも礼拝を共に献げて、礼拝を通してこそ主の福音を伝えていきましょう。 


 「神の子イエス・キリストの福音の初め」と始めるマルコ福音書は、閉じて終わっていないのです。開かれて終わっています。それは、主イエス・キリストの福音、すなわち「新しい言葉」を語って生きるマルコ福音書の後日談を、私どももまた生きて記していく恵みにあずかっているということです。マルコ福音書は、聖書では結びの二までですが、初代教会以来、結びの続き、結びの三を代々の教会が記してきた恵みを共に生きていきましょう。



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