【聖霊降臨節第11主日】
礼拝説教「嘆きの谷に泉」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 16:1-11
<讃美歌>
(21)26,13,373,140,64,27
マルコによる福音書を1年余りかけて学んできました。今週から最後の16章に入ります。最後の章に入ったからこそ、この福音書の冒頭の言葉を思い起こすことは大切です。最初の言葉は「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(1:1)という語りかけです。この言葉は、1章の初めのところだけを指すという読み方もありますが、この福音書の題のように、マルコによる福音書全体が「神の子イエス・キリストの福音の初め」を伝えていると捉えることができます。ですから、「神の子イエス・キリストの福音の初め」が、今日の箇所にも響いているのです。
16章には、主イエス・キリストの復活の出来事が記されています。15章には十字架の出来事が伝えられています。主イエスの十字架の死と復活は、「神の子イエス・キリストの福音」の中心です。十字架と復活なくしては主の救いの福音はなかったのです。しかしその初めは、どのようなものだったのでしょうか。マルコが忠実に伝えている言葉に思いを深めていきましょう。初めの教会が受けた主の導きを、私どもも与えられていきましょう。
16章はマルコ福音書の最後の章ですが、神の使いを通しての語りかけが強く響いています。それは力強い神の語りかけであるのです。
6・7節「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
神様の語りかけを聞いたのは「週の初めの日」(2)で、それは日曜日のことです。その日、朝早く女性たちが出かけて行ったのは、主イエスのお体に香油を塗って差し上げるためでした。兵士が見張っているであろうお墓へと行くことは、危険を覚悟であったと思います。しかし、思いもよらない主の語りかけを聞くのです。それは、主のなさることは、人の思いをはるかに超えていることがあるからです。特に、主の復活の出来事はとても受けとめきることができない、神によるみわざであります。
マルコは、主の復活の出来事に対して、弟子たちの不信仰や、女性たちが恐れて、当初何もできなかったことを伝えています。8節「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」そんな女性たちのことを主は御心にとめられたのでしょう。主イエスはマグダラのマリアに出会ってくださいました。そして10節11節にあるように「マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。」のです。
私どもだったらどうでしょうか。おそらくあまり変わらない反応だったのではないでしょうか。少なくともマルコは、弟子たちや女性たちの恐れや不信仰に自分たちの姿を見ているのです。
しかしマルコが同じく伝えていることは、私どもの不信仰や恐れをものともせずに、主は働かれるということです。そのような神の子イエス・キリストの福音の喜びの知らせが響き渡っています。主は、福音の御言葉によって、どんな弱さや不信仰をもつらぬき、闇の中にも輝きを放って、私どもを導くことができるのです。
主イエスが納められたお墓に行った者たちは、主イエスは復活なさったこと、そして、私どもより先に行かれてお会いできることを伝えられました。その喜びは、代々に渡って伝えられ今に至っているのです。
しかしただお会いできるという喜びではありません。お会いして、礼拝を献げることができる喜びであります。主イエスが私どもの救い主として、十字架におかかりになったけれども、死は主イエスを滅ぼすことができず、死から復活なさって、教会の主として働いておられる。その主イエスにお会いして、信じて礼拝を献げることができるのです。
マルコ福音書が証言していますことは、恐れは主イエスから来る平安に変えられることです。嘆きが神へのたたえに変えられる喜びが、堂々と記されているのです。ですから「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と結んで、このあとどうなったかと、福音の喜びを指し示しているのです。
先ほど申しましたように、主イエスのお体をいたわるために、精一杯のことをしようと、主イエスが葬られた墓に出向いた女性たちの名が記されています。マグダラのマリヤは、最初は恐ろしくて何もできずだれにも伝えられなかったようですが。復活された主イエスが彼女にご自身を現されてお会いしています。主イエスの復活を信じて伝え、救いの喜びに生きてるようになったのです。しかしほかのヤコブの母マリヤも、サロメも、ここに名が記されているということは、やがて主イエスの復活を心から信じて喜ぶことができる恵みに生きるようになったということです。受けとめきれない神の救いのみわざを信じて、やがて喜びに生きる者となっていった。礼拝の喜びに生きるようになったということです。
礼拝の喜びというときに、詩編84編3節に記されている、礼拝者の喜びを思い起こします。
「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。
命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。」
ここに告白されているのは、マルコ福音書が伝えようとした礼拝の喜びそのものです。信仰者が主なる神を慕って礼拝をささげ、魂の休み場を見いだし、その身も心も、喜びの叫びをあげることができる恵みが告白されているのです。
マルコ福音書は、とても厳しい迫害のなかで記されたと言われます。
迫害の火の手が上がる中、16章8節以下は焼け落ちるように失われたとさえ言われたりします。そして、後代の教会が結びを書き添えたというのです。しかしそのような厳しい苦難のときに、うめくように嘆きつつも、そこに主イエスから喜びの泉を与えられて、祝福でおおっていただいたのです。詩編の信仰者が証言した祝福に、初めの教会は生きたのです。私ども同じ恵みに生きることができるのです。
「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。
雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。」(詩編84:7)
「雨も降り」というのは、御言葉による恵みの雨を思います。御言葉によって私どもは、魂を潤されて生きるのです。
この箇所の喜びを何かにたとえるとしたら、それは誰も見たことがない花が咲いているようなものです。このマルコの福音書の終わりは、私どもの弱さ、不信仰という罪深さをものともせず、主イエスの喜びが開花しているのです。主なる神のみが咲かせてくださる喜びです。
私どもが信仰生活を歩む中で、どのようなときにも、主イエスのよみがえりの力によって、新しい開花が与えられていくのです。恐れや嘆きも、主イエスの恵みによって、新しい芽生えに変えられる祝福に私どもがすでに生かされていることを信じていきましょう。
Komen