【聖霊降臨節第5主日】
礼拝説教「あざむかない希望」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 14:53-65
<讃美歌>
(21)25,20,471,474,65-2,28
与えられています箇所は、いよいよ主イエスの十字架の苦難へと至る場面です。マルコ福音書が最も伝えたかった、主イエスの十字架の苦難と復活による救いへと至るところです。しかしこの箇所は、そのクライマックスへと至る途中経過いうことで読み過ごすことは決してできないのです。「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)と語りはじめたマルコ福音書ですが、ここにも「神の子イエス・キリストの福音」は記されているということです。「神の子イエス・キリストの福音」に思いを深めていきましょう。
主イエスはここで裁判を受けておられます。ただ不思議なのは、私どもが考える通常の裁判のように弁護人がいるわけではありません。主イエスはただひとりで裁判を受けておられます。弟子たちに弁護させようと備えることもできたでしょうが、そうはなさらなかった。むしろ、弟子たちがあざむいて逃げていくことをゆるされたのです。弟子たちをどこまでも愛しぬいておられました。そうであったから、弟子たちは命を落とすことなく、やがて回復の道を備えられ主イエスを救いを宣べ伝えていくことができました。
なぜ当時のユダヤの指導者達は、主イエスを裁こうとしたのでしょうか。それは彼らが積み上げてきたものが崩されることを恐れたからです。主イエスに照らされて、変わるべき姿を示されても、間違いを認めて変化することを恐れたのです。そして逆に、主イエスがいなくなって欲しい、殺したいと願って裁きを行っているのです。
しかしここでの裁判では、証言が食い違い、なかなか前に進まなかった。主イエスはいつでも、裁判を決着させないで逃れることができたでしょうが、そうはなさらなかったのです。
大祭司が「お前はほむべき方の子、メシアなのか」(61)とたずねた質問に、主イエスははっきりと答えられたのです。
「そうです。あなたたちは人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(62)
ここで「そうです」という言葉は、直訳すると「わたしがそれである」「わたしはある」となります。これは神が自らを表される言葉でもある。神が「わたしは、有って有る者」(出エジプト3:14)と御自身をモーセに表された言葉と同じであります。
さらに、「あなたたちは人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」と約束されました。しかし裁判長でもある大祭司は、自らを神と等しい救い主として言い表される主イエスの言葉を、「冒涜の言葉」としてしか聞くことができず、「死刑にすべきと決議」するのです。
「人の子」というのは、主イエスが御自分を指して用いられていますが、文字通りは人間の子ということです。それは、主イエスが私どもと全く同じ人になってくださったことを示しています。しかしもう一つの意味は、「人の子」は旧約聖書では時代が新約に近づくと救い主「メシア」を指して用いられるようになりました。もちろん、神ではない者が自らを神として、すなわち「全能の神の右に座」る者として言い表せば、それは神様を冒瀆することになります。しかし主イエスはここで、自らを人となられた主なる神であることをはっきり言い表しておられるのです。
考えてみれば、主イエスが「あなたたちは人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」と言われなければ、大祭司に「冒涜の言葉」と判断させることもなかったでしょう。主イエスは自ら十字架への道を歩み始めておられるのです。
結果として、決して裁かれるべきではない救い主が、悲しむべきことに裁かれたのです。しかしそこには、救いの道が隠されていました。裁かれるべき私どもに代わって主イエスが裁きをその身に受けてくださり、救いの道が主イエスの命を犠牲にして切りひらかれようとしていたことは、誰にもまだ隠されていたことでした。それは全く不思議な、神のなさった救いの御業でしかないのです。しかし信じる者にとって、主イエスのお苦しみは、まさに私どもの救いのためでもあるのです。
あざむいてしまった弟子たちが、決してあざむくことがない救い主を信じる希望に生きていったことは、真実な主の出来事を表しています。
「あなたたちは人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」という主イエスの約束を聞く時に、当時の教会が思い起こした一人の殉教者がいました。それはステファノです。彼は、主イエスの救いを説教し、また迫害を受けて命を神に献げる時に、「天が開いて、人の子が神の右に座っておられるのが見える」(使徒7:56)と告白したのです。「あなたたちは人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」と言われた主イエスの約束は、すでに当時の教会の歩みにおいて実現したのです。もちろん、主の約束は救いの完成に向かっての約束です。「あなたたちは人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」という約束は、いまもなお、成就し続けているのです。
ステファノが見たように、私どももまた、この礼拝堂で礼拝を献げる時に、天が開いていることを信じることができるのです。礼拝を献げるということは、天が開かれている時でもあります。昼間雨が降って曇っている時にも、必ず雲の上はまばゆい晴天であります。そのように私どもの上に、どのようなときにも変わらない主イエスが座して祈り支えてくださっているのです。主イエスはまた教会の主として、その聖なる命に私どもを結びつけて共に生きてくださるのです。礼拝にはじまる教会生活を、主が支え続けてくださっているのです。
どのようなときも、神の愛をもって祈り支えてくださっている主イエスに根ざして、天から与えられる望みを抱いて生きることができるのです。希望をもって、主イエスを仰ぎ見つつ共にいきていきましょう。
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