【聖霊降臨節第9主日】
礼拝説教「勇気を出して」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 15:33-47
<讃美歌>
(21)25,4,54,157,65-2,28
私どもは十字架上の主イエスに、忠実さの極みを見いだします。この箇所に記されている主イエスの十字架上の言葉に、深い信頼の極みを見いだして、その信仰の思いに私どもも導かれていきたいと願います。
朝の9時に十字架におかかりになった主イエスは、午後3時に、大声で叫ばれました。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」
それは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか。」という意味です。
自らを見捨てる神に向かって、なお祈ることができるでしょうか。主イエスは、私どもに代わって、父なる神に裁かれ、しりぞけられておられるのです。私どもの誰一人として、そのような時に、祈ることはできないのではないか。主イエスが、私どもの一人となってくださった、まことの人にして、まことの神であることが、この叫ぶ祈りの言葉に表れているのです。主イエスでなければ、ここでなおも「わが神、わが神」と呼ぶことはできないのです。
しかし、主イエスが絶望の淵にたって、そのように祈ってくださったので、私どもはもはや「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と叫ぶことはなくなったのです。私どもが立つことができない深い絶望の淵に、主イエスが代わりに立ってくださったので、私どもはそこに立つことはなくなったと信じて、希望を抱くことができるのです。そのように主イエスの負ってくださった十字架のお苦しみに、私どもの救いがあるのです。
主イエスが十字架上で息を引き取られた時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。その垂れ幕は、神を礼拝する神殿の奥深くに至聖所があって、そこには特別な者が限られた日にだけ入ることがゆるされた、その至聖所を隔てていた垂れ幕です。しかし、主イエスによって、その隔てていたものが取り除かれたということです。誰もが、主イエスの十字架の救いによって、主なる神にお会いすることができるようになったのです。そのような、主イエスによって与えられた恵みによって、私どもは生かされているのです。
主イエスが、十字架にその身を委ねられる歩みは、ヨハネ黙示録2章10節に記される「死に至るまで忠実」な歩みであります。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(黙2:10)というこの御言葉は、キリストの言葉として記されています。
キリストがその天使を送って、しもべヨハネにお伝えになったものです。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」とあるのですが、「死に至るまで忠実」であったのは、私どもの主イエス・キリストご自身です。その忠実さ、確かさを、「死に至るまで忠実であれ。」と私どもにも分け与えてくださるのです。
私どもが主イエスを信じて生きる確かさも、主イエスが分け与えてくださる確かさによって守られているのです。そこに、主イエスを信じて生きる喜び、希望があるのです。主イエスの恵みによって「死に至るまで忠実」であることができるのです。
「わが神、わが神」と、死に至るまで忠実であった主イエスは、死からよみがえられて、今も私どもの救い主、教会の主であられます。主イエスの深く確かな思いが、今も教会を支えて生かしているのです。
主イエスは私どもの間に働いて、信仰の歩みを支えてくださいます。私どもは主イエスのどこまでも忠実であった確かさを、分け与えていただいて礼拝生活を生きています。主イエスが抱いておられる深い信頼を、私どもも心に抱いて生きていきたいと願います。
主イエスの忠実さを受け継いだ、ひとりの人が記されています。すべてを失ってしまうかもしれないことを恐れずに、勇気を出して歩んだ者の姿が記されています。それは、ひとりの人の信仰をほめたたえているのではなくて、その者に働いて、そのような信仰の歩みを与えた主なる神をこそ、ほめたたえて記しているのです。
主イエスが十字架で息を引き取られ、悲しみに暮れてどうしていいか分からずに者たちは嘆いていました。どうやって主イエスを葬ればよいか途方に暮れたはずです。
そのようなときに、実にサンへドリンの議員のひとりが存在をかけて名乗り出たのです。主イエスを十字架へと追いやった、ユダヤ最高議会のサンへドリンの一員であるアリマタヤ出身のヨセフが、ピラトにイエスの遺体を渡してくれるように願い出たのです。
「安息日の前日であった」とありますが、安息日は金曜日の日没から土曜日の日没までです。主イエスが十字架上で息を引き取られたのが金曜日の午後3時ですから、日没まではそう時間がありません。日没を過ぎれば安息日に入るので、安息日の掟で葬ることができないのです。そのようなときに、ヨセフが申し出てくれた。心を砕いて祈っていた者たちには、どんなにかうれしかったことでしょうか。祈っていた女性たちにとっては、自分たちが申し出ても相手にされない中での出来事でした。
なぜ、議員であるヨセフがそのような行動がとれたのか、不思議です。イエスの遺体を引き受けるという、そんなことをすれば、自分の議員としての立場を失うことは明らかだからです。
もしかしたら、ヨセフは十字架上の主イエスの姿と言葉を聞いたときに、百人隊長と同じように「本当に、この人は神の子だった」と告白したのではないか。その信仰の告白を忠実に行動に表す恵みに、彼はあずかったと信じることができるのです。
ヨセフは主イエスの遺体を渡して欲しいと願ったときには、ひとつの強い願いがありました。それはせめて主イエスを墓にちゃんと葬ってあげたいという願いです。たとえ、これまで築いたすべてを失うようなことになってもそうしたいと、心から願ったのです。
マタイによる福音書によればヨセフは「岩に掘った自分の新しい墓の中に」(マタイ27:60)主イエスを納めた、と記されています。
やがては自分の入るべき墓に、主イエスを先に葬ったのです。たとえ今の自分の地位や名誉を失ったとしても少しも惜しくない。やがて主イエスの傍らに葬られるなら、自分の人生はこの上もないものだ、そう心から思えたことでしょう。
ヨセフがそこまでできたのは、「この人も神の国を待ち望んでいた」(15:43)からです。それはヨセフも密かではあっても、主イエスの弟子であった。神の恵みの支配のもとにいたということです。
主イエスを葬ったときに、ヨセフは主イエスの復活のことはまったく予想もできなかったし、願っていなかったはずです。しかしここに名前が記されているのは、やがて初代教会で名前が知られている中心的なキリスト者のひとりとなっていったと考えられます。
確かに主イエスは、私ども同様に人として葬られました。墓の中に死者として私どもに先立って葬られ、私どもの一人として死を経験されたということは慰めではないでしょうか。私どもが世の旅路を終えて横たわるところは、すでに主イエスがその身を委ねてくださったところであるのです。
さらに私どもにとって慰めであることは、そのような主イエスが、死においても死に支配されることなく、死からよみがえられて、いまも生きて教会の主として、救い主として働いてくださることであります。
ですから、私どもは、どのようなときにも主イエスに信頼して祈ることができるのです。ヨセフの墓に横たわり、そこを復活の場所としてくださった主イエスは、私どもの現実に横たわるように共に生きて、起き上がらせてくださいます。絶えず信仰を与えて導いてくださるのです。
主イエスが、私どものただ中に生きて働いてくださり、私どもが与えられている現実から起き上がって、日々の歩みを喜びをもって生きるように導いてくださることを信じていきましょう。
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