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shirasagichurch

2022年7月17日(日)

【聖霊降臨節第7主日】


 礼拝説教「キリストが担われたから」   

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 15:1-15 


<讃美歌>

(21)25,17,324,493,65-2,28


 与えられています箇所は、「夜が明けるとすぐ」とはじまっています。どのような「夜」であったのか、少し振り返ってみましょう。14章53節から、主イエスを裁こうとする裁判が行われていたことが記されています。「夜」、大祭司のところで、最高法院のメンバーが集められて裁判がなされました。当時の指導者たちは、主イエスを死に至らしめる証言を求めたのですが、その証言が食い違ってなかなかうまくいかない、そのような時に、大祭司がある質問を主イエスにしたのです。

「お前は、ほむべき方の子、メシアなのか。」というものです。

主イエスはお答えになりました。「そうです。」と言われて、御自身が全能の神の右に座る者、すなわち、人となられたまことの救い主、主なる神であることを明らかになさいました。

 すると、大祭司はその言葉を信じないで、神を冒涜する言葉としてとらえ、死刑にすべきだと決議したのです。しかし死刑にする権限を、当時のユダヤ人たちは持っていませんでしたから、ローマ当局によって裁いてもらう必要がありました。そこでローマ総督である「ピラトに渡した」(1)のです。それが今日の15章1節以下の箇所です。

 ピラトが主イエスをローマの当局者として裁く時に、神を冒涜したかどうかは問題ではなかった。裁くとすれば、自ら「ユダヤ人の王」と名乗り、ローマへの反逆を企ている者としてしか裁けなかったはずです。しかしピラトは、主イエスを死に至らしめる理由をどこにも見いだせなかった。しかし、群衆が叫ぶのを聞いて、騒動を起こされて、自分の立場があぶなくなるのを恐れたピラトは、主イエスを十字架にかけるために引き渡したのです。

 ほかの福音書もそうですが、主イエスの裁判をとても詳しく記しています。それは、記録することよりも、福音の言葉として詳しく伝えているのです。主イエスが当時の人の手によって裁かれたことが、私どもの救いになっていることを信じて記しているのです。なぜそのように信じることができるのでしょうか。

 表面的に読みますと、主イエスは当時の人の手によって裁かれたのです。しかも、ピラトが「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた。」(10)とありますように、指導者たちの「ねたみ」という悪意がひとつの大きな原因になっています。主イエスが自分たちよりもすばらしい働きをして、群衆がどんどんついていくときに、自分たちが積み上げたものが崩される怖さを感じていました。あるいは、自分たちがこれまで正しいと思って行ってきたことが、根底から裁かれる思いがした。そのことに耐えられないで、主イエスを裁こうとした。いなくなって欲しいと願ったのです。


 しかし当時の指導者たちが主イエスを裁こうとした思いは、私どもとは関係のない話でしょうか。立ち止まって考える必要があります。

 ある神学者は、この箇所の、ピラトに主イエスを引き渡して裁こうとする思いは、私どものある思いを映し出しているというのです。それは、人を自分と比べて非難し裁いて、自分を安定させて生きる姿というのです。自分を正当化して人を非難し、自分を保つ思いを、私どもは心のどこかにもっているのではないでしょうか。

 しかし、人と比べて正当化はできても、それぞれ神の前に立つとしたらどうでしょうか。申し開きができるでしょうか。どんなに神に赦されるべきであり、また罪赦されたことへの感謝を忘れて、容易に人を裁くことがあるとすれば、今日の箇所で、主イエスの裁判は、大きな問いかけを与えているのです。それは、主イエスがピラトの裁判を受けながら、何も自己弁護なさらないことです。これはひとつの大きな謎であります。

 なぜ、主イエスは黙しておられるのでしょうか。それは、人の手による裁きというだけでは理解できないものがあります。指導者たちの「ねたみ」という悪意だけではなくて、隠された神の思いがここに働いているという秘密、神の奥義が主イエスの裁判には秘められているということです。主イエスはここで、もうひとつの意味で、神の前に裁かれているということです。黙しておられるのは、神の前に立つとすれば何の申し開きもできない私どもに代わって裁かれておられる。ですから、マルコ福音書は、主イエスが裁かれていることが私どもの救いになっていると信じて、福音の言葉として記しているのです。

 主イエスの裁判を記す言葉が、14章53節から続いていると言いました。その裁判を記す言葉に、挟み込まれるようにして、ペトロのことが記されています。サンドイッチ構造と呼ばれて、まるでサンドイッチのように、ペトロが主イエスを知らないと言って、あの人と自分は無関係だと表明してしまった箇所が、主イエスの裁判に挟み込まれているのです。

 呪いの言葉さえ口にしながら、主イエスのことを知らないと言ったペトロであります。呪いの言葉というのは、自分の言っていることが本当でないなら、神に裁かれてもかまわないという意味です。実はマルコ福音書がペトロの言葉を最後に記しているのは14章71節です。「するとペトロは呪いの言葉さえ口にしながら『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と誓い始めた。」この言葉が、マルコ福音書でのペトロの最後の言葉です。絶望的なペトロの姿を包み隠さず記しています。それは、自分たちの姿を重ねるようにしているのです。あらわになったペトロを包み込むようにして、サンドイッチのように主イエスの裁かれる御言葉が記されています。それは、絶望の闇を包み込み、それを救いの光に変える主イエスが、ペトロを、私どもを憐れみをもって包み込んでくださることを信じて記しているということです。主イエスが父なる神の御前で、ペトロに代わり、私どもに代わって裁かれてくださった。そのように主イエスが裁きをその身に受けてくださったことが私どもの救いとなっていることを信じることができるのです。


 アウグスティヌスという有名な神学者は「神は人間の悪巧みをも、ご自身の計画の中に取り込んでしまい、そのことによって人間の意志ではなく、神の意志を実現していく」という意味のことを語ったそうです。当時の人々の悪巧みによって実現した十字架が、救いとなったということです。

 ペトロがそうであったように、主イエスは私どもの不信仰をも包み込み、そこに救いを与えることができるのです。主イエスは不信仰から信仰を生み出し、深い闇から光を造りだして私どもに将来を与えることができるキリスト、救い主であります。私どもがそのようなキリストに包み込まれて生きていることを信じて、どんな時にも希望を抱いて祈りを献げつつ生きていきましょう。

 

 マルコ福音書は、黙して従順に身をゆだね、十字架へと歩み行かれる主イエスに、イザヤ書の苦難のしもべの姿を重ねていると言われます。

イザヤ53:5「彼が刺し貫かれたのは

       わたしたちの背きのためであり

       彼が打ち砕かれたのは

       わたしたちの咎(とが)のためであった。」

 まさに主イエスは、私どもの咎、罪のために神の裁きをその身に受けてくださったのです。

 イザヤ53:11「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために

         彼らの罪を自ら負った。」

 主イエスは十字架に、私どもの罪を負って命を献げてくださり、それによって信じる者は、神の御前に罪赦されて正しい者とされ救われるのです。

 イザヤ53:8「捕らえられ裁きを受けて、彼は命を取られた。

        彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。

        わたしの民の背きのために、彼が神の手にかかり、

        命ある者の地から断たれたことを。」

 主イエスの裁判は、深く福音の言葉として聞くことができるのです。それは、主イエスが「神の手にかかり」私どもに変わって神に裁かれたということです。私どもに代わって自ら私どもの罪をその身に負い、神に裁かれたのです。

 どうか、主の尊い福音を信じて、深い感謝の思い、主イエスへの賛美を献げて共に生きていきましょう。



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