【聖霊降臨節第6主日】
礼拝説教「ある弟子の挫折から」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 14:66-72
<讃美歌>
(21)25,12,132,481,65-2,28
自分のことを自分で知っていくのは難しいことがあります。主イエスの弟子の代表と言うべきペトロもそうでした。
少し前の14章の27節以下で、主イエスが弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく。・・・しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と言われたときです。ペトロははっきりと言い切りました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」(29)でも、主イエスはすべてをご存じで、ペトロを見ぬいておられました。主イエスはペトロに語りかけられました。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」とペトロをはじめ弟子たちがいったんはつまずいて離れていくけれども、立ち直る道を約束されました。そして、主イエスが愛をもって話されたのです。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(30)三度否定するのは、決定的に否定することですから、厳しい言葉です。しかし、一番耳の痛いことを語られたのは、主イエスが愛なる神であるからです。聖書の御言葉が時に自分を照らす厳しい言葉として響いてくることがありますが、そこに神の愛の語りかけがあるのです。
しかし、自分のことを照らされても、すぐに自分でそのことを認めるのは難しいものです。主イエスの言葉を受け入れることができないペトロは力を込めて言いました。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(31)ほかの弟子たちも同じように言ったのです。
ペトロの言葉とどちらが実現したかと言えば、主イエスが愛をもって語られた御言葉が現実となっていったのです。私どもも、主の御言葉に思いを深めていきましょう。
ペトロが大祭司の家の中庭にいたとき、夜の闇に包まれていました。大祭司というのは、ユダヤ人たちの宗教的指導者のトップにいる人です。主イエスを裁く裁判長のような存在です。おそるおそる主イエスがどうなるかとついて行っていたペトロは、夜の寒さから、暖をとるたき火にあたります。「火にあたっている」(67)とありますが、「光にあたっている」とも訳せます。自分の顔が、夜の闇に照らし出されていることにペトロは気付かないのです。
そのようなときに、大祭司の女中がペトロを見て気付きました。「あたなも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」(67)ペトロはしどろもどろで「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」(68)と打ち消すのです。1回目の否定です。彼は庭の出口に向かって出て行こうとしますが、そこで鶏が鳴きました。女中はペトロを見て周りの人に、イエスの仲間だ、と言います。再びペトロが否定すると、今度はペトロの口調になまりがあったのでしょう。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」(70)と言われると、ペトロは三度目に主イエスを知らない、仲間ではない、と否定してしまうのです。
その時です。ペトロは主イエスの言葉を思い出してはっとするのです。「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」先ほど申しましたように、その日の夕食の後、主イエスがあらかじめペトロにそう話された時、「たとえ御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを死なないなどとは決して申しません。」と「力を込めて言い張った」のです。死に至るまで忠実でありたいし、そうできると思っていたペトロは、三度も主イエスを徹底的に否定してしまって、自らのふがいなさから、そこにくずれるようにして泣き伏すのです。「いきなり泣き出した」(72)のです。
しかし、ペトロの心には、この時、このような自分にも思いをかけてくださっている主イエスの思いが迫ってきて、よけいに申し訳ない気持ちでどうしようもなかったのではないでしょうか。
主イエスは、ペトロたちに、あらかじめ話して道を備えておられました。あなたがたは、わたしを捨てて一時、散ってしまうが、やがて回復の道、悔い改めの時が備えられていることを話されていました。
「わたしは復活した後、
あなたがたより先にガリラヤに行く。」
ただ泣くほかにどうにもできなかったペトロでしたが、この時、ペトロを大きな神の思いが、主イエスの憐れみが、闇を包む光のように覆っているのです。光が差すところに影ができますが、ペトロを包む闇は、神の憐れみの光があたってるからこそ、そこに影が落ちている、とも理解できるのです。
さて、ペトロが三度目に主イエスを知らないと否定したときのことです。「ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたの言っているそんな人は知らない』」(71)と主イエスを否定しました。どういう意味でしょうか。「呪いの言葉」というのは、私の言っていることがほんとうでなかったら、神に呪われてもかまわない、という意味だと言われます。神に呪われることは、神に見捨てられて退けられることでありますが、ペトロは、結局、神に呪われることはなかったのです。むしろ、ペトロが受けるべきものを主イエスが十字架に呪いをその身に受けてくださった。それゆえにペトロは救われました。私どもも主イエスの救いの道に生きる者とされるよう招かれているのです。
さて今日の箇所は、ある意味でペトロしか知らない出来事です。ペトロといっしょにいた弟子が目撃したことも考えられますが、おそらくペトロが何度も何度も語ったので、ここに書き記されているのではと思います。つらい失敗ですが、それよりもはるかにまさる主の救いを、喜びをもって伝えているのです。
ペトロはやがて、初代教会を代表する指導者、牧師になりました。「たとえ御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」という思いを文字通り生きる者となっていったのです。しかしそれは自らの力によって言い張るペトロではなく、自分のような者を罪赦して導く主イエスの確かさによって仕えていったペトロなのです。ペトロは殉教の死を神に献げたと伝えられています。
思い起こす聖書の御言葉があります。その御言葉は、主なる神からの語りかけで、初代教会が受け継いだものです。
ヨハネの黙示録2章10節「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」元々は、スミルナの教会にあてた手紙の一節ですが、それはまた諸教会への手紙でもありました。ですから、初代教会が、迫害の厳しい中で、「死に至るまで忠実であれ」という御言葉を文字通り生きていったのです。死に至るまで忠実であることは、どこまでも主の恵みに生きぬくことでもあります。
ペトロが受けた恵みを初代教会は受け継いでいきました。主の恵みは、私どもに受ける資格も理由もないのに、神様が愛をもって与えてくださるものです。主の恵みに全部気づいているかと言えば、そうではないのです。恵みは主の働きなので、私どもが到底知り尽くせないものです。しかし、知り尽くせないことを知り続けていく喜びがあります。それは、私どもを包む主イエスの大きな憐れみに触れ続けていくことでもあります。主の深い憐れみに触れるのは、聖書の御言葉に照らされていることでもあります。主の御言葉に照らされることは、御言葉に触れていただくことでもありますが、その恵みを喜びとして生きていきましょう。知り尽くせない主の恵みの働きによって生きていることを信じていきましょう。
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