【聖霊降臨節第1主日】
礼拝説教「神からの賜物」
願念 望 牧師
<聖書>
使徒言行録2:29-42
<讃美歌>
(21)25,17,343,346,65-2,29
今日は、ペンテコステ礼拝を共に献げています。キリスト教会の三大行事の一つと言われることがあります。クリスマス、イースター、ペンテコステですね。クリスマスは主イエス・キリストの誕生の祝い、イースターは復活の祝いですが、ペンテコステはキリスト教会の誕生日と言われます。
教会の誕生日ということは、教会のいのちの源が主なる神にあるということです。主が教会を生かし、また支えてくださっていることに思いを深めていきましょう。
ペンテコステは、2章の1節にあるように「五旬祭」と訳されますが、直訳すると「第50」という意味です。元々「五旬祭」は当時の収穫感謝祭として、またモーセの十戒が与えられた日として持たれていたようですが、主イエスの復活から50日目に聖霊がくだったことを記念して、キリスト教会はペンテコステを祝うようになったのです。
聖霊は、単なる力ではありません。目に見えない主なる神の霊、あるいは主ご自身と言ってもいいのです。聖霊は、聖書では神の霊(Ⅰペトロ4:14、フィリピ3:3)、イエス・キリストの霊(フィリピ2:19)とも呼ばれますが、主なる神が目には見えないけれども共にいてくださるのです。霊という言葉は、旧約聖書のヘブライ語を背景に持ちますが、風とか息という意味合いを持っています。風は見えませんが、風が吹いていることは木々が揺れたりしてわかりますし、風を感じることもできます。同じように、主が教会を動かしてくださっていることは、私どもが礼拝をささげていることに現れているのです。また、息というのは、いのちの息ですが、教会にいのちの息が吹き入れられて誕生して生きるようになったのです。祈りが呼吸にたとえられることがありますが、礼拝は祈りのときでもあります。私どもが祈りをささげているその祈りの息に、私どもが気づかないところで主のお働きがあってこそ、祈りは祈りとなっていくのです。
そのような、主なる神が私どもと共に生きて働きかけてくださる恵みが、ペンテコステの出来事を通して始まったのです。ペンテコステの出来事は、聖霊降臨の出来事で、最初は何が起こったのか、周りの人々にはよく分からなかったようです。しかしペトロが他の弟子たちと共に立って、聖書の言葉によって説き明かし、説教をしたのが今日の箇所です。
聖書の言葉によって説教したのは、どうしてもそれが必要だったからで、神の出来事がそこに起こっていても、それが聖書の言葉によって示されないと、人は理解して受けとめることができないからです。
ほかの言い方をするなら、御言葉の伴わない神の出来事はないとも言うことができるのです。私どもが経験することは様々にありますが、主の御言葉に照らされて吟味される必要があるのです。
ペトロは、17節で、聖霊降臨の出来事が、聖書の預言の成就だと語りかけました。それは旧約聖書のヨエル書3章1節の引用です。
「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」
旧約の時代には、神の霊は特別な人に注がれ、たとえば預言者が神の言葉を伝えました。しかし、主イエス・キリストか来てくださった新約の時代には、聖霊がすべての人に注がれるようになったのです。それは、主はすべての人を救いに導こうとなさっているからで、分け隔てなく共に生きてくださることのあらわれでもあります。
ペトロは「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(21)と力強く語りかけました。
ペトロはその説教の中で、ダビデのことを取り上げて、彼が預言者として救い主の復活のことを語っていたと言うのです。詩編の16編の10節を引用して「彼は陰府に捨ておかれず、その体は朽ち果ていることがない」ことが、主イエス・キリストの復活によって実現し、ペトロたちはそのことの証人だと語りかけました。「陰府」とは、もはや主なる神の手が届かない、死の世界と考えられていましたが、その陰府にまで主イエスは行かれ、復活の道、救いの道を切りひらいてくださったのです。
そして、主イエスが受けるにふさわしい聖霊を、私どもにも注いでくださるようになった恵みをペトロは語ります。そのような聖霊降臨の恵みは、主の救いのご計画でもあるのです。ペトロが引用した、詩編110編1節は、わかりにくい表現があります。「主は、わたしの主にお告げになった。」とは、主(父なる神)が、わたしの主(救い主、主イエス)に語りかけられたという意味で受けとめることができます。「わたしの右の座に着け。」とは、主なる神であるという意味ですし、父・御子・聖霊の三位一体の神の姿がそこにもあるのです。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」とは、主なる神が働いておられて、私どもを神から引き離そうとするものを、罪とその働きに終わりをもたらそうとしてくださっているということです。
人々を罪から救い出して、神と共に生きるように導いておられることをペトロは語るのですが、ペトロを通して、御言葉に伴う聖霊の働きによって心を打たれた人々は問いかけます。「わたしたちはどうしたらよいのですか。」(37)
ペトロは語ります。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(38)
悔い改めるというのは、神の方へと向き直ることを意味します。救いを与えようと私どもの方をすでに向いてくださっている主を信じて向き直るのが、悔い改めるということです。悪いことをやめるという意味で悔い改めると理解することもありますが、聖書では、むしろ、神へと向き直るからこそ、主が働きかけてくださって悪しき思いや行いから離れていくことができるということです。
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」この約束の御言葉はとても重要で、洗礼を授けられたときに、神からの賜物として聖霊を受けるということです。それは、約束の出来事であって、信仰をもって受けとめることで、感覚で確かめるものではありません。私どもの側に、聖霊を与えられ、罪を赦していただく理由は何もないのですが、ただ、神の賜物としていただくのです。主イエスの救いとはそのようなものです。
ペトロたちは、「わたしたちは皆、そのことの証人です。」と語りました。その言葉はとても深く重い告白です。「証人」という言葉は、主イエスが復活してくださって救い主としてお働きくださっていることの証人という意味です。
しかし、初代教会で、やがて迫害が激しくなり、主が救い主であることの証人として生きることは、迫害のゆえに殉教の死をささげることが起こっていきました。そして、「証人」という言葉が、「殉教者」の意味でも用いられるようになったのです。「証人」である「殉教者」と共に主はおられて、主を宣べ伝える喜びが「証人」たちを支えていったのです。
ペトロは、かつて主イエス・キリストを知らないと、三度も否定してしまった弟子です。しかし、彼にも赦しの道が与えられ、弟子としてもう一度仕えるようになったペトロは、神の働きによって主の弟子、主の証人となり続けていきました。伝えられているところでは、ペトロも「殉教者」の一人となったのです。しかし、ペトロたちの体の命は奪うことができても、彼らが伝えた主の救いはだれも奪うことができず、また主の救いの道を終わりにすることは誰もできないのです。
私どもも、ペトロたちの足跡にならって、主の救いの証人としての喜びに生きていきましょう。聖霊の働きは、最初の教会がそうであったように、礼拝を始まりとする教会生活のすみずみにいたっているのです。主は私どもの礼拝を支え、赦しを与えて喜びと感謝に生かしてくださるのです。その喜びと感謝は私どもの間だけにとどまることはないのです。主が働いておられ、私どもに将来をもたらしてくださることを信じて、これからも祈り励んでまいりましょう。
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