2022年6月26日(日)
- shirasagichurch
- 2022年6月25日
- 読了時間: 6分
【聖霊降臨節第4主日】
礼拝説教「聖書の言葉が実現する」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 14:43-52
<讃美歌>
(21)25,2,51,55,65-2,29
主イエスは私どものために悩み苦しんでくださいました。今日の箇所には、12人弟子の一人ユダが裏切り、主イエスを当時の指導者たちに引き渡したことやほかの弟子たちも見捨てて逃げ去ってしまったことが伝えられています。そのこと自体は実に悲惨な出来事です。しかし、主はその悲惨さを乗り越えて、救いの道をひらいてくださった。私どものために苦しんでくださったのです。心に浮かぶ聖書の言葉があります。
「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ2:18)とあります。主イエスは私どもと同じ一人の人となってくださり試練を受けられたので、私たちの弱さを思いやって助けてくださることができるのです。「罪は犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた。」(ヘブライ4:15)のです。私どもは悩みや苦しみを経験します。しかし、その苦しみや悩みを、主もまたよく知っていてくださるのです。それは、私どもと同様に苦難を受けてくださったからです。主イエスは、そのすべての試練において、神の御心を行い、試練に勝たれ、裏切りさえも救いに変えてくださったのです。私どもの誰ひとり受けとめることのできない苦難をその身に負われました。十字架にかけられ苦しまれたのですが、死は主イエスを滅ぼすことができず、死からよみがえられて、私どもの救い主となられました。だからこそ、私どもを助けて、救いを与えることがおできになるのです。
私どもの弱さや生きていて受ける困難を思います時に、主イエスもまた同じように試練を受けられ、私どもの弱さや罪深さを知っていてくださることは、大きな慰めであります。弟子たちの罪深さが招いた出来事ですが、主イエスは神の試練として受けられました。最も近くにいた弟子たちが、主イエスを裏切ったことが告白されているのです。
聖書の言葉を聞く時に、このような箇所に、おそらく愛唱したくなる聖句を見つけることは難しいのではないでしょうか。すぐに心を引きつけられるような言葉を与えられるでしょうか。しかしマルコは、大きな慰めをうける出来事として記しているのです。
ある先生が、聖書を味わうときに、手でなぞるように読んでいくことを勧めてくださいました。そして、手にざらつくような、心に引っかかる言葉に注目していくのです。
手でなぞるように読んでいきますと、みなさんはどうでしょうか。私は「逃げてしまった」という言葉が二度も重ねられていることが心にとまりました。
主イエスから離れてしまったのです。それは、離れてしまった者にとっても、大きな試練であります。自分の罪が招いたことであると認めたとしても、弟子たちは、自分で自分を赦すことができなかったのではないか。それだけ、主イエスのことを愛し、この方に生涯ついていきたいと心の底から信じていたからです。同じ14章の31節にはこうあります。
「ペトロは力を込めて言い張った。『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』皆の者も同じように言った。」どこまでも、死にいたるまでも従っていきますとペトロも他の弟子たちも語った。心からそう思っていたでしょう。それだけに、「逃げてしまった」自分たちを赦すことができなかったのではないかと思います。
自分で自分を受け入れて赦すことの難しさを、経験なさった方もあるのではないでしょうか。ふと思い出すことがあって、こうすればよかったと後悔することがあります。あるいは、悔しい思いがぶり返すこともあるのです。
私どもは自分で自分を赦し受け入れることにおいても、人を受け入れて赦すことにおいても、主なる神の助けがどうしても必要なのです。主が神の愛によって赦して受け入れてくださっていることを信じることによってこそ、私どもは自らを受け入れて赦し、また人を赦して受け入れていくことができるのです。
主イエスがこのように祈りなさいと教えてくださった、主の祈りを礼拝で必ず祈ります。
主の祈りの中にある祈りの言葉に引っかかる思いを持たれたことがあるでしょうか。
「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。」
元々の言葉の順番ですと、口語で次のようになります。
「わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。」(日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳より)
ある牧師が指摘してくださっていることでもありますが、「わたしたちの罪をおゆるしください」と祈るときに、ゆるしていただいくことができるのだろうかという思いを抱くことがあります。あるいは、「わたしたちも人をゆるします」と祈りながら、心に引っかかるのです。自分ではゆるせないことがあるからです。しかし、主の祈りは祈りです。
できないからこそ祈るのです。主の赦しを確信できなくても、たとえ人を赦せなくても「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」と主を信じて祈り続ける中で、赦すことができるようになっていく恵みに生きていくのです。
このマルコ福音書は、主イエスの救いを伝える福音書であります。弟子たちは、自分たちが、主イエスに従いきれず逃げてしまったような者でありながら、すべてを赦された喜びを伝えています。再び弟子にしていただいた者として、主イエスを伝える喜びを、命を献げて記しているのです。
ですから、主イエスを捨てて逃げてしまった、という最も恥ずべきことを記しながら、そこには、そのような罪深さのどん底で、なおも主イエスは、弟子たちの裏切りに心を備えて、救いの道を切りひらいてくださった、という大きな讃美の歌がここから聞こえてくるのです。
もしペテロ達が、自分たちが天に召されたときの葬儀をあらかじめ準備して、どういう聖書の箇所を読んで欲しいと、仲間に伝えたかと想像します。もしかしたら、今日の箇所もそのひとつではないかと思います。それは、このような私でさえも、主イエスはすべてを赦して、福音を伝える者としてくださったのだから、あなたも招かれている、神の赦しを受けとるようにと伝えたかったはずです。私のように離れてしまっても、主イエスのもとに帰ることができる、と力を込めて神を讃美しながら指し示しているのです。
さて、「逃げてしまった」と記されているもう一つの箇所には、「素肌に亜麻布」をまとった一人の若者の話が記されています。恐れて逃げてしまったこの若者は誰でしょうか。多くの神学者が指摘しますように、これは、マルコ福音書の著者マルコが、自分の若い頃のことを、ここに読む者が分かるように書いているというのです。
恐れを抱いて、「亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」ような私が、この福音書を書いていることの喜びにあふれてここに記しているというのです。恐れから解かれて、主イエスに結び合わされ、主イエスの罪の赦しを、その救いを伝えていると告白しているのです。「逃げてしまった」ことを伝えながら、それでもなお、見捨てることをなさらなかった主イエスへの、心からの讃美があふれているのです。
私どももまた安心して、キリストの教会に受け継がれた讃美の声に、心を合わせて歌いつつ生きてまいりましょう。





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