【聖霊降臨節第3主日】
礼拝説教「御心を求めて祈る」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 14:32-42
<讃美歌>
(21)25,19,209,504,65-2,29
与えられています箇所には、主イエスの祈りが記されています。どこで祈られたかというと、ゲツセマネというところに主イエスは弟子たちと行かれました。ゲツセマネは、オリーブ畑があった所で、オリーブの実をしぼる、油しぼりという意味があります。ゲツセマネでよく祈っておられた主イエスは、このとき、十字架を目前に控えて、その存在からしぼり出すように祈られました。主イエスは深い思いをこめて祈られたのです。その主イエスの祈りに、私どもも心を合わせていきましょう。
主イエスは祈られました。
36節「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」
なぜ「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られたのでしょうか。主イエスは十字架におかかりになることを目前に控えておられました。主イエスであっても「死ぬばかりに悲しい」(34)と言われ、この苦しみのときが過ぎ去るように願われたからでしょう。しかしそれは御自分を守るためだけだったのでしょうか。そうではないはずです。
主イエスは、父なる神と全くひとつのお方で、父なる神の御心を知り抜き、その御心を御自身の心とされたお方です。ですから、ご自身の心が耐えられないことよりも父なる神の御心を知って祈られたのではないか。十字架へと命を献げようとする独り子のことを、父なる神が主イエスと同じように苦しみぬき、心を裂いておられることを知って、主イエスは「この杯をわたしから取りのけてください。」と祈られたのではないでしょうか。
考えてみれば、主イエスほどに、苦しみや悲しみを知っておられる方はいないのです。ゲツセマネでの祈りにそのことがよくあらわれています。ですから、主イエスは私どもの心を受けとめてくださることができる。弟子たちはここで眠ってしまって祈れなかったのですが、私どもが悲しみの果てに、祈ることができないような時にも、主イエスは祈って助けてくださるのです。今もなお救い主が祈ってくださることは大きな慰めであり励ましです。
ローマ人への手紙8章34節「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否(いな)、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」
「わたしたちのために執り成してくださるのです」というのは、私どもが赦され助けられるように執り成しの祈りを今もなおささげてくださっているということです。主がどのように祈ってくださっているか、その祈りは、ゲツセマネでの祈りからも垣間見ることができるのです。
「この杯をわたしから取りのけてください。」と祈られた主イエスは、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」とゆだねていかれました。苦き杯を飲みほされたのです。それは、私どもが自らの罪ゆえに飲むべきものです。もはや飲むことがないようにしてくださったのです。
その杯を飲みほされた主イエスは、私どもの救い主として、聖なる杯、聖餐の杯を与えてくださいました。その杯は罪の赦しの杯です。私どもに代わって、神にしりぞけられる死を経験され、死からよみがえられたしるしに、主イエスの聖なる命として、パンをいただくのです。
教会は、主イエスがこのように行いなさいと言われた、聖餐を執り行います。感染対策としてなかなか執り行うことができていませんが、8月第1日曜日の平和聖日には、聖餐を祝いたいと願っています。聖餐は、小さなパンの一切れとぶどうの実からつくった飲み物の杯をいただきます。聖餐は、主の赦しにあずかり、聖なる命をいただくのです。
主イエスは、私どもが主なる神の赦しと救いの命にあずかるために、ゲツセマネで祈ってくださいました。主イエス・キリストのゲツセマネでの祈りが、十字架と復活の救いの道を切りひらいたと言うことはゆるされると思います。
その人の有り様が、行いを生み出すという意味で、BEINGがDOINGを生み出すと言われることがあります。主イエスの祈りが救いの道を生み出したのです。主の救いは決して自動的に身を任せて実現するようなものではなかったはずです。主イエスの尊い祈り、ご自身の命がけの祈りがあったからこそ、救いの道が与えられ、教会の今があるのです。
ゲツセマネでの祈りは、ある意味で、主イエス・キリストご自身だけが、祈りぬくことができるものであったと思います。主イエスに「目を覚まして祈っていなさい。」(28)と言われたペトロでしたが、主イエスとご一緒に祈ることはできませんでした。眠かっただけではないでしょう。
先ほど、BEINGがDOINGを生み出すと申しましたが、主イエスのお苦しみの極みは、ある意味で、ゲツセマネでの祈りにあると言うことができるのではないでしょうか。あるいは、十字架のお苦しみの極みを、ゲツセマネでの祈りにおいて、すでに主は経験しておられるのではないでしょうか。だからこそ、弟子たちはだれも、ゲツセマネで主と共に祈ることができなかったのです。
主イエスがゲツセマネでの祈りにおいて、「死ぬばかりに悲しい」と言われた経験をなさっておられたということは、そこでこそ、弟子たちは主イエスをお支えすべきであります。一番お支えすべきところで何もできずに眠ってしまったということは、とても残念なことです。しかし、主の救いの道を切りひらくことができるのは、主イエス・キリストご自身のみだということではないでしょうか。
救いの道は、主イエスただおひとりが切りひらくことがおできになります。「時が来た」(41)と言われて、神の時に御自身をゆだねていかれました。最後まで眠りこけていた弟子たちを、主イエスは裁いて退けてはおられないのです。やがて彼らも、主イエスと心を合わせて祈る時が来ることを信じておられたと思います。
私どもも、どんなときにも、神の時が備えられていることを信じ、主イエスに助けられて、この身をゆだねていくことができるのです。私どもは主なる神に身をゆだねることができるのです。主イエスが共にいてくださるからです。主にゆだねるとはどういうことでしょうか。
礼拝は、祈りの時と言われることがあります。祈りは私どもが発するものですが、それと共に主が祈られている祈りに心を合わせていくのが祈りです。主イエスが「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られた祈りに私どもも、心を合わせて祈っていくのです。そのように御心を求めて祈ることは、主の恵みによるお働きがなくてはできないことです。主の聖霊の助けによって「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈っていきましょう。
「時が来た。」と主は言われました。
主イエスは、弟子たちが神の御心に心を合わせて祈る喜びの日が備えられていることを確信して、神の時にゆだねていかれたのです。
私どもも、主にならって神の時にゆだねていくことができるのです。キリストの体である教会に連なる私どもは、仲間と共に、主イエスの命につながって助けられ、神の時に身をゆだねていくのです。先にある神の時だけではないのです。すでに実現した神の時の恵みに、すでに生かされているのです。
主イエスは「目を覚まして祈っていなさい。」と語りかけられます。礼拝をささげて祈りの時を持つことは、目を覚まして祈っていくことです。礼拝で目を覚まして祈り、主の恵みの時を生きていることを信じて、ゆだねつつ主に仕えてまいりましょう。
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