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2022年6月12日(日)

【聖霊降臨節第2主日】


 礼拝説教「回復の約束」 

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 14:27-31 


<讃美歌>

(21)25,11,113,521,65-2,29


 マルコによる福音書を少しずつ学んでいます。これまで主イエスは、三度も十字架と復活の救いについて弟子たちに語ってこられました。そして、いよいよ十字架におかかりになる前日のことです。主イエスは祈り備えるためにオリーブ山へと向かわれる、その道すがら、弟子たちにどうしても語るべきことがありました。それは弟子たちのつまずきの予告です。主イエスを捨てて、弟子たちが離れ去ってしまうことです。とても語るのがつらいことでしたでしょう。しかし主イエスは弟子たちを最後まで愛しぬいておられたので、神の愛によって語られたのです。主イエスの、その深い神の思いに私どもの思いを深めてまいりましょう。


 主イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたは皆わたしにつまずく。」(27)そして、旧約聖書の言葉(ゼカリヤ書13章7節)を用いて語りかけられました。

「あなたがたは皆わたしにつまずく。

『わたしは羊飼いを打つ。

 すると羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。」(27)

 「わたしは羊飼いを打つ。」という「わたし」は主なる神のことと理解することができます。しかも主イエスがそれを語られたということは、羊飼いである主イエスが打たれるということです。父なる神が主イエスを打たれるというのは十字架のことを示しています。

 神の時がきて、父なる神が「羊飼い」である主イエスを打たれて、十字架の苦しみへと向かわせられると、主イエスの「羊」である弟子たち、あなたたちは「散ってしまう」と語りかけられたのです。

 しかしそれと共に、神の愛によって、深い思いを込めて主イエスは弟子たちに約束されました。それは、散ってしまうことで終わらずに、回復の道を備えてくださるという約束であります。今日の箇所のどこに回復の約束があるのでしょうか。主イエスは約束されました。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く。」(28)

 ガリラヤは、主イエスが伝道を開始された地です。マルコによる福音書の1章14節15節にこう記されています。

「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」

 主イエスはガリラヤで最初の弟子たちを集めていかれました。シモンとその兄弟アンデレ、またヤコブとその兄弟ヨハネです。主イエスはやがて12人の弟子たちを任命され、シモンはペトロと名付けられました。

 ですから「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く。」と言われたのは、もう一度やり直す機会を与えられると理解することができます。しかも、同じ繰り返しではなくて、復活された主イエスが新たに弟子たちを導いてくださる約束です。ですから、回復の約束というよりは、新たな再出発の約束であります。


 弟子たちのすべてを知った上で、主は「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われました。「つまずく」というのは、主イエスの信仰の道からそれていくことです。回復の道を約束して、弟子たちの現実を教えようとなさったのですが、ペトロたちは主イエスの深い愛の語りかけが分からなかった。そればかりか、とても受け入れることができずに言い返すのです。

 ペトロは、自らの決意を主イエスに主張します。29節「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」ペトロが言いたいことは、あの人はつまずいても、わたしは違います、ということです。

 このような思いは、確信に満ちているようでありながら、とても注意すべき罪を犯していることになるのです。あの人はつまずいてもわたしはそうではない、というのは、自分で自分を正しい者と思い込み、他の仲間がつまずき、信仰からそれていく者として見なしています。見過ごせない、分裂を生み出す、重い罪がここに示されているのです。ペトロがここで犯している罪に陥ってはならないのです。ペトロを、そして私どもを見捨てることなく導いてくださる主イエスは、このときのペトロを、その罪深い思いに留まらせないで、御自身の言葉、神の言葉によって照らしだし、ペトロをその思いから、ぐっと外に引っ張り出して行かれました。自らの本当の姿をまだよく分かっていないペトロに、主イエスは真実を告げられます。ここに、御自身の命をかけた神の愛を見ることができるのです。

30節「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」


 ペトロは、なおも主イエスの言葉を受け入れられないで、力を込めて言い張ります。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(31)

 皆さんの中には、ペトロが告白したこの決心は、実現しないで、主イエスが言われたとおりに、三度、主イエスのことを知らないと言ってしまうことを知っている方もあるでしょう。そうしますと私どもは、いとも簡単に、このときのペトロの言葉は空しいものだと、片付けてしまうのではないでしょうか。

 しかし、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」という告白は、考えてみれば実にりっぱなものであります。ペトロは、確かに、死を覚悟していました。主イエスを捕まえにきた兵士に抵抗したり、危険を覚悟で、主イエスが捕らえられている家の中庭にまで入っていきました。ペトロは、人間の持てる限りの覚悟を抱いていたと思います。私どもは、ペトロの心からの思いを受けとめて、愛しぬいてくださった主イエスを知るべきであります。主はペトロを憐れんでくださいました。主イエスはペトロに再出発の道を備えられました。その道は、私どもにも備えられているのです。

 確かにペトロの、人間の持てる限りの覚悟は、空しく地に落ちて実現しなかったのです。ペトロは主イエスの言葉通り、三度も主イエスを知らないと言ってしまいます。そしてペトロの中からは、回復の道は生まれなかったのです。

 しかし主イエスの回復の道は、ペトロの不信仰にふさがれることなく、備えられていきました。主イエスの約束は変わらなかったのです。


 主イエスは「あなたがたより先にガリラヤ行く」という約束をやがて成就されます。御自身の真実な愛による神の言葉を実現されました。復活された後、先立っていかれ、ガリラヤでペトロたちを待っておられました。

 ペトロたちの多くは、ガリラヤ出身の漁師たちでした。彼らは望みを失い、信仰も見失って、もとの漁師にもどっていました。しかし主イエスはそこへと再び行かれて、ペトロたちをもう一度弟子としてくださったのです。彼らをつまずきから立ち直れるようにしてくださった。主イエスの復活の命に弟子たちを生かされたのです。

 

 今日与えられた箇所は、主イエスが弟子たちと、主の晩餐を終えて出かけられたときの話です。主イエスが弟子たちに聖餐をこのように行いなさいと教えられて、彼らが聖餐にあずかったあとの出来事です。聖餐は、主イエスの赦しと命にあずかることです。

 ですから弟子たちはこのとき、すでに、約束においては主イエスの復活の命にあずかっていると信じることはゆるされるのです。死で終わらない、つまずきで遮ることができない神の聖なる命にすでに生かされている。弟子たちはつまずきを経験することになりますが、それも神の恵みの中で経験しているのです。主イエスの救いの命に、主イエスの赦しと命にすでに生かされ守られているのです。

 主イエスは、同じように、私どもを聖なる命に生かして守ってくださいます。回復させてくださるのです。主は私どもの心に、信じる信仰の思いをよみがえらせてくださるのです。主イエスは、ペトロたちと同じように、私どもに「あなたがたより先に・・・行く」と約束してくださいます。主イエスは私どもに先立ってくださるのです。主イエスが私どもに先立って導いてくださることを信じて、日々に歩んでまいりましょう。




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