礼拝説教「滅びない言葉」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 13:28‐37
<讃美歌>
(21)26,13,55,461,65-2,29
主イエスは、与えられています箇所で、何度も「目を覚ましていなさい。」と語りかけられています。なぜ、そのように話されたのかは、直前の箇所とつながっています。ひとつには、当時の礼拝の中心であったエルサレム神殿が崩壊するほどの危機が迫っていたからです。それだけではなくて、主イエスは、終末の救いの完成に向かう時なので、それがいつ起こるのかは、誰も知ることはできないけれども、たえず心づもりをして不意に襲われないように「目を覚ましていなさい。」と語りかけられたのです。
くどいほどに言葉が重なる主イエスの語りかけをマルコが記したのは、それは過去の話ではなくて、自分たちへの語りかけと心から信じて記しています。マルコは、後の時代の人々も聞いてほしいと福音書を記したでしょうが、私どもを見据えていたとは到底思えません。しかし、主は私どものことも、私どもの知り得ない、のちの時代の人々をも見据えておられるのです。
三度同じ言葉が重なる主イエスの語りかけを、ご一緒に聞きなおしたいのですが、一つ目は32節以下に「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。」とあります。
「子も知らない」とは、神の独り子である主イエスも知らない、ということです。それは父なる神の領域であるという意味で、子も知らないということですが、機械的に、いついつの時間が来たら救いが完成されるということではないということではないでしょうか。主は、だれも滅びることを望んでおられないで、すべての者を救おうと心を傾けておられるのです。
ある程度、時間の予測がつくような場合でも、私どもは待ち続けることができなくなることがあります。本当に主は救いを完成されようと働き続けておられるのだろうかと疑う気持ちが芽生えることがあるからです。主イエスの再臨のこと、救いの完成のことを、かつての厳しい迫害の時代や戦火の絶えない時代にはよく語られていたと思いますが、現代においては、かつての時代のような待望が薄れているのではないでしょうか。
主イエスは、留守番をあずかる僕(しもべ)たちにたとえて話されました。二つ目の語りかけです。34節以下「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。」
そして、主イエスは、私どものことをも見据えて、このように語られました。三つ目の語りかけです。37節「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」
「目を覚ましていなさい。」というのは、寝ないで起きていなさい、という意味ではないことは、おわかりになると思います。では、どのように目を覚まして生きていくようにと、主イエスは求めておられるのでしょうか。
ある写本は、目を覚まして祈っていなさい、と書き写しています。実は、聖書の原本はどこにもなくて、書き写した写本だけが残っています。そして、写本によって若干の違いがある場合があるのですが、「目を覚ましていなさい」とあるのを、書き写す人が「目を覚まして祈っていなさい」と言葉を補ったと考えられます。これは、写本のどちらが元の原本に近いかを判断するときの考え方ですが、元の言葉が「目を覚まして祈っていなさい」だったら、「目を覚ましていなさい」と、「祈っていなさい」を省いてしまうことは考えにくいからです。
もちろん、目を覚ますことと祈ることはひとつのことです。祈りをささげて神へと思いを深めていくその時に、目を閉じながら、かえって、神の恵みの内に目覚めて生きていくことになるのです。
実際に主イエスが、ほかの場面で、目を覚まして祈っていなさい、と度々語られたことはあったはずです。少なくとも、マルコは14章のゲツセマネで祈る主イエスのことを記しながら38節で、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」と主イエスの御言葉を書き残しています。少しややこしい話をすることになりますが、ゲツセマネで弟子たちは、祈らずに眠り込んでしまいましたので、「目を覚まして祈っていなさい。」とは、眠らずに祈っていなさい、という意味もありますが、むしろ、信仰の眼差しにおいて、神様の前に信仰が眠ってしまうことにならないように、「目を覚まして祈っていなさい。」ということです。
いずれにしても、祈ることなくして、神の前に信仰が目覚めていることはできないのです。祈るということは、神の語りかけに、すなわち主イエスの御言葉に思いを深めていくことでもあります。主イエスの語りかけによって、祈りの心が私どもの心に与えられるからです。
主イエスは、私どもの信仰が目覚めているために、「いちじくの木から教えを学びなさい」(28)と言われました。いちじくの木は、聖書の中で最も多く出てくる植物の名前です。それほど身近だったので、主イエスがたとえで使われました。
みなさんの中には、ぶどうが一番たくさん出てくると考える方もあると思います。私もそう思っていたことがあるのですが、実際に数えた学者がいるのです。確か、ぶどうは2番目です。白鷺教会の看板の横には、ぶどうの木が植えられていて、いま新芽と共に、小さなぶどうの房をたくさん見ることができます。とても励まされます。
ぶどうもそうですが、いちじくも、当時の人々にとても身近でしたので、実りの季節をよく知っていました。いちじくの木をよく知っているように、「神の時」を知って、わたしに従ってくるように、と主イエスは招かれたのです。当時の人々は、どのようにいちじくの木から、季節を見分けたのでしょうか。
「枝が柔らかくなり、葉が伸びる」(28)と、実りの季節が近づいたことが人々には分かりました。それと同じように、「神の時」が近づいていることを知りなさい、ということです。
しかし、「神の時」は、ある一点で捉えることができるものではありません。
私どもはすでに、「神の時」の恵みのご支配の中に置かれているのです。主イエスがたとえで話されたのは、すでにそれは始まっているということです。主イエスが来られたこと自体が、終末の救いの完成へと向かう「神の時」の始まりでもあります。
主イエスは神の福音を宣べ伝えられた始まりに、こう言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)「時は満ちた」というのは、神の時が満ちたということですし、それは救い主である主イエス・キリストによる救いの時が到来したということで、その御言葉の響きはマルコ福音書を貫いて、この箇所にも響いているのです。
「神の時」にいる中で、私どもは、その時の完成を、恐れて待つのではないのです。ぶどうの小さな房がたくさん見つかると、その実りが楽しみなように、あるいはいちじくの実りの季節が来たのを知るとその実りを心待ちにするように、神の時の実りを喜んで待つことがゆるされているのです。神の時が実るのを待ちながら、主の御言葉によって目を覚まして祈っていきましょう。主イエスは永遠にいたる励ましを与えられました。
31節「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と主イエスは宣言されたのです。「滅びる」というのは、過ぎ去るという意味でもあります。天地は過ぎ去っていく、しかし、主イエスの御言葉は過ぎ去らない。主イエスの御言葉によって導かれる私どもの信仰生活も、空しく過ぎ去らないのです。御言葉の実りを経験させてくださるのです。
主なる神が、私どもに、教会生活の実りをもたらしてくださることを信じて、主の御言葉によって目を覚まして祈っていきましょう。
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