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2022年5月29日(日)聖日礼拝

【復活節第7主日】


 礼拝説教「聖なる食卓」 

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 14:22-26


<讃美歌>

(21)26,2,56,531,65-2,29


 聖書から主の語りかけを聞いていくときに、前後のつながりは大切です。それは、どういう状況で主が語られたかよく分かるからです。

 今日与えられています箇所は、「一同が食事をしているとき」(22)とありますが、その食事の席で、直前の12節以下に記されていますように、主イエスは弟子の裏切りを予告なさいました。イスカリオテのユダが主イエスを指導者たちに引き渡すために裏切ることです。また、与えられています22節以下に続く、27節からのところでは、ペトロたちが主イエスにつまずいて去ってしまうことを予告されています。主イエスを捨てて離れ去ってしまうことです。ペトロには、主イエスを知らないと三度も否定してしまうこともあらかじめ語りかけられました。

 ですから、今日の箇所は、裏切る弟子たちの予告に挟まれているのです。裏切り、離れ去ってしまうことになる弟子たちに向かって語りかけられています。しかも、キリスト教会が説教と共に礼拝の中心として大切に受け継いできた、聖餐が制定されているのです。聖餐は、聖なる食事ということですが、主イエスの救いを五感で受けとめるかたちでいただきます。小さく切り分けられたパンを食し、ぶどうの実から作ったものを飲むのですが、それらは、主イエスの救いによって罪を赦され、主なる神につながる命をいただくことを意味します。

 そのような最も大切なことを伝え、またその聖なる食事に主イエスは弟子たちをあずからせていかれたのですが、その弟子たちがこのあと裏切り離れ去ることを知った上でのことなのです。いかに主が心広く、愛にあふれたお方であるかを心に刻むべき箇所であります。

 先ほど、聖餐は主イエスの救いによって罪を赦され、主なる神につながる命をいただくことを意味しますと言いました。実際にどうなさったかと言いますと、主イエスはパンを取り、それを裂いて弟子たちに「取りなさい。これはわたしの体である。」(22)と語りかけられます。パンが裂かれたことは、主イエスの聖なるいのちが十字架の上で裂かれたことを思い浮かべますが、そのことによって主のいのちが私どもにも分け与えられ、しかもそのいのちの一部とされて生きるようになったことを示しているのです。

 私どもは食事をして生きていますが、それ以上に、主のいのちをいただいて生きているということです。その主の聖なるいのちは、十字架の上で裂かれて死から復活されたいのちであって、主のいのちの中で私どもは生かされ守られているのです。その恵みを経験するのは礼拝の中であって、主の御言葉の語りかけによって主のいのちにあずかり続けているのです。

 また主イエスは、ぶどうの実から作った飲み物を弟子たちに与えて言われました。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(24)このことは明らかに十字架の上で流された主イエスの血を思い浮かべます。主が私どもに代わって十字架の上で裁かれたことによって、罪の赦しが与えられたのです。契約は救いの約束の意味でもありますが、通常、契約を結ぶ双方が互いにある程度のものを出し合って結ぶものです。しかし、主との契約では、私どもは自らの罪を差し出し、主が救いを与えてくださることによって結ばれるのです。実に畏れ多くもったいない救いの約束なのです。


 最初に、今日与えられています箇所は、「一同が食事をしているとき」(22)と記されていると言いました。その食事は、当時の習慣では過越(すぎこし)の食事です。旧約の民が、かつて奴隷の苦役を強いられていたエジプトを出ることができたときに、犠牲の小羊を献げて祈りをささげたことが元になっています。犠牲の小羊は罪の赦しを主に願ってささげたものです。しかし聖書を読みますと、主イエスと弟子たちの過越の食事では、小羊をささげて食していることがどこにも書かれていません。ほかの福音書でも同様です。書き漏らしたのではなく、主イエスと弟子たちは、過越の食卓で、小羊を食していないのです。それは、主イエス・キリスト自らが、犠牲の小羊となってくださったからです。


 さらに注目すべきは、「多くの人のために流される」という言葉です。これは、私どもの中にとどまらないということです。まだ私どもが出会っていない多くの方のためにも、主は救いを用意なさったということです。その方々は、私どもから見て望ましい方ばかりではありません。主は裏切り離れ去ろうとする弟子たちに、「取りなさい」と分け与えられていかれたからです。

 離れ去ろうとする弟子たちをも主は招かれたのですから、まして主を求めて集う者が、やがて洗礼を受けて、主の聖餐にあずかることを、主は心から望んでおられるのです。


 ある方のことを思い起こします。かつて青森の教会で牧師をさせていただいていたときですが、Sさんは、ある日の礼拝に初めて来られて以来、欠かさずに出席され、熱心に求道されていました。しかし何ヶ月かして、2・3週休まれたので心配していました。やがて分かったことは、入院されていたということです。川の土手で自転車に乗っているときに転んでケガをされ、頸椎を損傷して、首から下が動かずに横たわっておられるというのです。とてもショックでした。熱心に信仰を求めて礼拝に集っておられたので、主よ、どうしてですかと心が騒ぎました。

 急いで、親しくされていた教会員の方と病室をたずねました。すると、Sさんがまずお話になったのですが「先生、洗礼を授けてください。やっと決心がつきました。私のような者でも洗礼を受けられるでしょうか。」と言われたのです。お聞きすると、この度のことを通して、神様から自分の傲慢が打ち砕かれる思いがして、やっと決心できたというのです。

 Sさんは、若い頃から長く福祉に身を献げて来られた方で、授産所のような施設を多く手がけられ、青森ではその分野では草分けのような方でした。洗礼の準備に伺うと、思いを語ってくださいました。このようにお世話になる身になって初めて、これまでいろんな方をお世話してきたつもりだったけれども、いかにいたらなかったかがよく分かります。助けていただけることそのことが、身にしみて感謝です。いつも、御見舞いに行く私たちの方が励まされて帰りました。


 準備を終えて、その兄弟は、主イエス・キリストを救い主として信じて洗礼を授けられ、初めて聖餐にあずかりました。

 主イエスが「取りなさい。これはわたしの体である。」と言われた、主の聖なるいのちにつらなっていかれた。また、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われた、主イエスの罪の赦しの救いによって生きるようになったのです。信仰によって起き上がる恵みに生きていかれました。肉体の体は横たわったままでも、信仰によってその存在が起き上がって、希望に生きていかれました。

 Sさんは、リハビリにも祈りをもって取り組まれ、手足がほんの少し動くようになられました。軽く握手できるようになったときは、喜び合いました。

 やがてご家族といっしょに住むために転居なさるとき、その手を握って祈りをささげましたが、主イエスがSさんの手をずっと握っていてくださると信じて分かれました。

 私どもも、主はご自身の聖なるいのちにつなげてくださるのです。そのいのちのつながりは、絶えることがないのです。


 最初に言いましたように、この箇所は弟子たちの裏切りの予告に挟まれています。それにもかかわらず、主イエスは恵みにより、主イエスの聖なるいのちに結びつけていこうとされました。弟子たちと救いの約束を結んでいかれたのです。その約束の確かさに、私どもをも生かしてくださいます。主イエスが結んでくださる救いの確かさは、どんな絆よりも強いものです。

 

 かつて旧約聖書の創世記で、アダムとエバの話が記されています。アダムは、エバと出会うことができたときに、「わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。」(2:23)と喜びました。しかし主の信頼を裏切って罪を犯したときに、アダムはそれをエバのせいにしたのです。

 アダムが言った「骨の骨、肉の肉」というのは、なくてならない体の一部という意味で捉えることができます。同じような表現が、ハイデルベルク信仰問答という、キリスト教会が受け継いできたものにあります。信仰問答は、洗礼準備に用いられましたが、教会生活について教えているものですから、いつもふりかえる必要があります。聖餐の意味について問いの76はたずねて、また答えています。

 問76「キリストの、十字架につけられた御体を食べ、その流された御血潮(おんちしお)を飲むとは、何を意味しているのでしょうか。」

 答 それは、信仰の心をもって、キリストの苦難と死の全体を受け入れ、それによって、罪の赦しと永遠の生命を得るということを意味しています。

 それだけではありません。それに伴って、キリストの中にも、わたしたちの中にも、同時に住み給う聖霊によって、ますます、キリストの祝福された御体と一つとされるいうことをも意味しています。

 キリストは天にいまし、わたしたちは地上にいるのですが、それにもかかわらず、わたしたちは、キリストの肉の肉、骨の骨なのであります。

 わたしたちは、一つの霊によって永遠に行き、また、一つの霊によって支配されるのであります。それは、ちょうど、わたしたちの身体の肢体が、一つの魂によってそうであるのと同じであります。」(春名純人訳)

 

 主は、私どもを「キリスト肉の肉、骨の骨」として、なくてならない存在として愛し、主のお体の一部としてくださっているのです。それほどに主が愛してくださることを信じて、私どもも主の愛に生きる者とさせていただきましょう。



 
 
 

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