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2022年5月22日(日)聖日礼拝

更新日:2022年5月22日

【復活節第6主日】


 礼拝説教「信じて準備する」 

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 14:10-21


<讃美歌>

(21)26,18,166,479,65-2,29


 ある教会で、こんな話を聞きました。その教会員のおひとりが、教会の礼拝に集うようになったきっかけにこういうことがあったそうです。それは、ひとりの子どもが、教会に入っていくときに、スキップをしながら、しかも鼻歌を歌いながら楽しそうに礼拝堂に入っていった。おそらく鼻歌は讃美歌だと思います。それまで礼拝に集いたいと願いつつも、ためらっていたその方は、子どもがそのように受け入れられるところであるのなら、私のような者も十分に受け入れられるのでは、と安心して礼拝に集うようになったというのです。

 私どもの教会の年度目標は、「一人一人がまことの平安の中で生きる」です。私どもがスキップする必要はありませんが、礼拝でごいっしょにいただく喜びは、伝えようとしなくても伝わっていくものだと思うと、励まされるのではないでしょうか。


 「一人一人がまことの平安の中で生きる」ことは、私どもを見る時に、主イエスが生きておられるということが響き伝わるということであります。そのようなことが起こるのは、主なる神にかかっています。主が生きておられることが伝わるのはもちろん、この礼拝においてこそ伝わっていくものであります。私どもが共に礼拝をささげている中でこそ、私どもの中に主イエスが生きておられるということが伝わっていく。そして、そのことはもちろん、教会のあらゆる営みに響きわたっていくのです。教会のあらゆる営みの生命線がここにささげている礼拝であります。

 

 礼拝では、マルコによる福音書を少しずつ学んでおりますが、今日与えられています箇所は、10節に「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。」と記しています。この言葉を聞いて、どう思われるでしょうか。自分に関係があるとはすぐには思われないもしれません。しかし、この言葉は、マルコ福音書が記された当時の教会にとっては、自分たちとは関係のない話として聞くことはできなかったのです。彼らの存在を傾けて聞いたのです。なぜなら、「十二人の一人」というのは、特別な十二人であります。主イエスの最も近くにいて、愛され育てられていた十二人の弟子たちの一人ということであります。自分たちの中心的な仲間の一人です。そのような者が「イエスを引き渡そうとした。」それは、主イエスを十字架に引き渡そうとしたということです。

 ですから、マルコの教会で、この福音書が朗読された時に、「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。」と聞いた時、彼らは、それを自分たちのこととして聞かずにはおれなかったのです。仲間の一人が、主イエスを裏切った。そのことを心に痛みをもって聞いたということです。しかし、そのことは、決してかつてのマルコの教会だけのことではなくて、私どもにとっても、同じことであります。私どもにも語りかけられている神の言葉として聞くべきだということです。

 先ほど、10節で、イスカリオテのユダが主イエスを「引き渡そうとした」ということは、主イエスを十字架に引き渡そうとしたことだと語りました。主イエスは、マルコ福音書において、ご自身が十字架におかかりになることについて、そして、死から復活されることについて、あらかじめ、弟子たちに語ってこられました。マルコ福音書には、そのことが三度記されていますが、決して三回しかお話しにならなったということではないはずです。幾たびも、弟子たちに心を込めて、弟子たちを愛して語っていかれた。その主イエスの愛の中心に、十二弟子たちはいたのです。もちろんイスカリオテのユダもいました。

 その時に、主イエスは、ご自身が十字架におかかりになることについて「引き渡される」と前もって語られた時に、十字架におかかりになる覚悟をもっておられました。それは、罪の赦しによる救いを与えるためです。弟子たちのためにも十字架に引き渡されようとされたのです。そのことをマルコの教会は、自分たちのためでもあると信じて記しています。そしてマルコ福音書は、その読者に対して、「あなたのためにも主は命を捨てられた」と語りかけているのです。主イエスの十字架は、私どものためでもあります。私どもに代わって、主イエスは十字架の上に、神の審きを受けてくださいました。


 この箇所で主イエスと弟子たちは食事をなさっているのですが、それは過越の食事と呼ばれる大切なものです。旧約聖書で出エジプトという出来事があります。長年にわたって、およそ400年にわたってエジプトで奴隷の苦役を強いられていた旧約の民たちが、神の恵みによって、エジプトを出ることができるようになりました。奴隷から解放されることができるようになって、もう一度、自分たちの故郷の地へ帰ることができるようになったのです。そのような、エジプトを脱出しようとする、まさに出エジプトの時に、さまざまな邪魔が入ったのですが、それらを主が取り除かれた最後に神の審きが行われました。誰もその審きを逃れることはできないのですが、旧約の民たちは憐れみを与えられて、神の審きを過ぎ越していただくことができました。彼らは、小羊を犠牲にささげて、その犠牲によって神の審きを過ぎ越していただくことができたのです。そのことを記念して祝う食事が過ぎ越しの食事であります。その時に、犠牲の小羊が食されます。小羊の命の犠牲によって、神の審きが過ぎ越したからです。その過ぎ越しの小羊というものは、私どもにとりましては、主イエスを指し示しているのです。主イエスは神の小羊であります。主イエスはここに、過越の食事をなさっているのですが、自ら神の小羊として、十字架へと歩み出しておられるのです。

 主イエスはご自身を信じる者が、罪赦され神のものとされる救いを与えるために、過越の小羊として、自ら引き渡されました。そして、死からよみがえられて、今も生きておられます。キリストの体である教会の救い主として、支えてくださっているのであります。マルコ福音書を読みますと、最後の16章の15節以下に、復活された主イエスが命じておられる言葉が記されています。それは、教会に与えられた主イエスの言葉、神の言葉であります。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」キリストの教会が、洗礼を授けることを委ねられています。父と子と聖霊の名において洗礼を授けることを委ねられていますが、実に厳粛なことです。そして、その洗礼は、主イエスの十字架の死と復活によって確かなものとされているのです。いやそれなしには、教会は洗礼を授けることはできなかったのであります。

 

 マルコの教会は、自分たちの確かさよりも、主イエスの確かさに生きたはずです。そのことは、今日の箇所から十分に聞き取ることができます。

主イエスは、十字架のご受難を目前に控えたこの食事、最後の晩餐の席で、十二弟子たちに語りかけておられます。18節「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」そのようなことを語られようとは、弟子たちは全く考えつかなかったと思います。十二弟子たちは、砕かれる思いがしたでしょう。自分たちがそれまで信じていた、自らの確かさ、それを打ち砕かれたということであります。自分たちが確かだと思い込んでいた、自らの確かさが砕け散っているのです。そしてそのことを、マルコの教会もまた、自分たちのこととして記しているのです。

 ですから、19節で、弟子たちが「心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。」そのことは、何も十二弟子たちだけの問題として記しているのではありません。マルコの教会が自分たちの不確かさを重ね合わせるように記していると理解することができると思います。

 どのような不確かさ、罪深さでしょうか。19節で、弟子たちが「心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。」そのことは、何を示しているのでしょうか。彼らがそのように口々に言ったのは、主イエスの言葉によって、自分たちの裏切りの可能性を照らし出されているのです。自分たちが主イエスを裏切ることはないという確信を、自ら抱くことはできなかった。「まさかわたしのことではないでしょう。」と口々に問いかけて、主イエスから「あなたは大丈夫だ。」と語ってほしかったのかもしれません。しかし、主イエスは、そのようには決してお語りになってはいません。そしてそのことは、私どもに対しても同じことであります。

 もし私どもが、礼拝において、主イエスの御言葉の光に照らし出され、自らの確かさに不安を抱き、主イエスを裏切ることさえあり得るほどの罪深さを示された時に、「わたしは大丈夫でしょうか。」と問いかけても、主イエスから、だれ一人として、「あなただけは大丈夫だ、安心しなさい。」とは、語りかけていただくことはできないということであります。それは、私ども自身の確かさというものは、最後まで私どもを支えることができないのです。私ども自身が築き上げる確かさというものは、私どもを裏切ることがあるからです。主イエスは、決して裏切ることがない主イエスご自身にのみ望みを置くようにと、私どもを招いておられるのです。

 イスカリオテのユダの物語について、多くの神学者は、その背景に、預言の言葉として、詩編41編の言葉があると語ります。同じくユダについて記しています、ヨハネによる福音書は、その詩編41編10節の言葉を引用しています。「『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。」(ヨハネ13:18)そのことは、イスカリオテのユダの物語が、たまたま起こってしまった不幸な事件ではなくて、聖書の御言葉に預言されていたということであります。

 イスカリオテのユダの物語がそうであるように、まして、主イエスの十字架は、21節にあるように「聖書に書いてあるとおり」に実現したのであります。そのことは、父なる神の御心による救いのみ業であるということです。

父なる神の御心にすべてをゆだねた主イエスが、十字架を目前に控えて、愛しぬいてきた十二弟子たちに、裏切りについてあらかじめ語らなければならなかった、そのことは、どんなにか、心痛むことであったでしょうか。その主イエスの痛みをどれほど私どもは理解しているでしょうか。あるいはまた、どれほどに知ろうとしているでしょうか。

 先ほどの詩編41編10節の言葉には、「わたしの信頼していた仲間」とあります。まさに、主イエスが信頼して愛を注いでいた者が主イエスを十字架へと引き渡したのです。そのような裏切りは、最も重い、これ以上ない罪ではないでしょうか。そのために主イエスは実に深い悲しみを受けておられます。それは深い痛みです。深い霊的な痛みであります。主イエスはやがて十字架の上で苦しみをお受けになるのですが、その前にすでに、ここに霊的には、痛み苦しんでおられます。しかし、そのように主イエスが愛をもって心痛められたことはまた、弟子たちを支えていったのです。

 主イエスが、御心を痛めて弟子たちに彼らの現実についてお語りになったことによって、弟子たちは、自らの姿を照らし出されました。そしてやがて、ほんとうに心痛めるようになったのです。彼らは、照らし出されることによって、その時はただ心痛めているだけであったかもしれない。しかし、主イエスの御言葉によって始められたそのことは、やがて、神の御心に添ってふさわしく心痛めるようになったのです。まことの悔い改めへと導かれていったということです。

 19節で、心を痛める弟子たちの姿は、彼らの、後ろめたい秘めた裏切りの思いが照らし出されているだけであるかもしれません。しかし、明らかにされた弟子たちの思いだけではなく、弟子たちよりもはるかに勝って、神の御心を痛めておられる主イエスがおられるのです。神の御心を痛める主イエスの御思いが、弟子たちの上にあって導いている。ふさわしく心痛める主イエスの御心が彼らをすでに支配している。そのように理解することはゆるされると思います。

 弟子たちがここに、主イエスから語られ、照らし出されて自らの現実を知ったということは、確かに、つらく悲しい経験であります。しかし、そこに照らし出された弟子たちの思いとは別に、主イエスがなおも、憐れみをもって愛しぬいていかれたからこそ、弟子たちは歩むことができたのです。彼らは、主にのみ希望を置くように導かれていったということです。

ユダ以外の十二弟子たちは、決してユダを断罪することはできなかったはずです。ペトロをはじめとして、彼らは、主イエスを捨てて逃げ去ったからです。裏切ったのです。心痛めて主イエスの言葉を聞いた弟子たちは、実際に、自らの不確かさ罪深さを、主イエスを捨てるというかたちで思い知ることになるのです。しかし、それで終わりではなかった。ペトロたちは、立ち直ることができたからです。どこから、立ち直ることができたでしょうか。それは、自らの確かさが砕け散ったところからであります。深い淵とも呼ぶことができるようなところからです。

 

 詩編130編を思い起こします。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。」と始まります。宗教改革者のマルティン・ルターは、この詩編130編をとても愛したと言われます。そして、ルターは、詩編130編を教会の歌として愛したのです。ルターがやがてこの地上での生涯を終え、ヴィッテンベルグの墓地に埋葬された時に、教会の者たちは、涙ながらに詩編130編の歌をささげながら、ルターを主のみもとにおくったというのです。

詩編130編は、今もなお、キリストの教会に与えられています。

 「イスラエルよ、主を待ち望め。」

 「イスラエルよ」というところに、「キリスト教会よ」と当てはめることはゆるされると思います。

 「キリスト教会よ、主を待ち望め。

  慈しみは主のもとに。

  豊かな贖いも主のもとに。

  主は、キリスト教会をすべての罪から贖ってくださる。」


 私どもは、自らの弱さに打ちひしがれ、時に主イエスの御言葉の光に照らし出されても、なおも、そこに自らが喜び頼みとするものが何もないので、その罪深さに失望することがあります。しかし、そのような自らに失望してしまうような、深い淵の底においてこそ、主イエスに出会うことができるのです。いやそこでこそ、主イエスに出会っているのであります。

 そのような深い淵で、ふさわしく心痛めて悔い改めていくことは、主にのみ望みを置く幸いな歩みが、主イエスによって生み出されていくのです。主の赦しの恵みにのみ生きることの喜びが輝きを放つのであります。私どもの確かさは、主なる神にあります。

 どうか、私どもの教会が主にのみ希望を抱くようにと祈っていきましょう。主の救いの恵みが、礼拝のたびごとに確かにされていく喜びと平安に生かされていきましょう。



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