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2022年5月1日(日)聖日礼拝(長老就任式・CS教師就任式)

礼拝説教「惑わされないために」 

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 13:14-27


<讃美歌>

(21)26,3,51,579,65-2,29


 マルコ福音書の13章は、小黙示録と呼ばれることがあります。ヨハネ黙示録に対しての小黙示録ですが、終末の救いの完成に向けての出来事が語られているのです。黙示というのは、元々の意味では、隠されていることを明らかにして語り示すということです。ですから、主イエスだけが知っておられる神の領域の話を、弟子たちにも語りかけていかれました。

 23節「だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」主イエスは、弟子たちのことを心にかけて、命がけで愛しておられたからこそ、「一切の事を前もって」話されました。

 「気をつけていなさい」というのは、元々は「見る」という言葉です。しっかりと見ていなさい、ということ。しっかりと神に心を向けて生きることを、主イエスは望んでおられるのですが、また弟子たちの弱さを憐れんで語っておられます。その主イエスの御言葉に、私どもの思いを深めていきましょう。


 14節「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら」という主イエスの言葉を人々が聞いた時、当時のキリスト者が思い起こす、かつての出来事がありました。それは、主イエスが来られる以前、シリアのアンティオコス4世という王が、ユダヤを支配しました。そして、エルサレム神殿に異教のゼウス像を建てたのです。「立ってはならない所」すなわち、主なる神を礼拝する神殿の祭壇に、偶像を建てたことがあったのです。

 しかし、主イエスは、そのようなことがあったら、逃げるようにと言われます。それは、神の正義のためには、神が戦われるからです。私どもが守ることができるものではない。まして、建物の神殿を守るために命を献げる必要は無いと言われるのです。


 私どもにとりまして、主イエスこそが、立つべき所、すなわち神の座に立たれるお方であります。その主イエスを、人々が審き十字架に殺したのです。あってはならないことです。しかし、そのような時にも、主イエスは弟子たちが逃げることを、そのままにしておかれました。むしろ、一緒に命を捨てることを望まれなかったのです。

 そして主イエスが死からよみがえられた時、弟子たちを再び呼び集められて、主イエスの福音のために用いられました。弟子たちは、その時、主イエスのために命を献げてもかまわないと喜んで従っていきました。主イエスという逃れ場をいつも持っていたからです。

 

 そのように主イエスが私どもを逃れさせ、またしもべとして用いてくださる恵みはなおも続いています。その恵みは主イエスが再び来られる日へとつながっているのです。やがての日に、もはや逃れる必要のない時がくるということです。すなわち救いの完成の日には、主イエスが再び来られて隠れるようにしていた者を見つけ出し呼び集めてくださるのです。

 その時まで、私どもは、繰り返し繰り返し、主イエスを逃れ場として、魂のよりどころとして生きているのです。ある聖書の言葉を思い起こします。


「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

 「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」とあることは、私どもが教会生活の中で、共に経験させていただいていることではないでしょうか。逃れる道を備えてくださるのは、主イエス・キリストご自身です。むしろ、私どもの救い主(メシア)が逃れ場となってくださっているのです。

 主は、「気をつけなさい」と言われました。「偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」(22・23)いかにもそれらしい、ほかの逃れ場があるように思えても、惑わされてはならないのです。

 「惑わそうとする」と言われて、ピンと来ないかもしれません。

 いわゆる「おれおれ詐欺」で、一番危ないのは、自分は大丈夫と思っていて、他人事に考えている場合です。そのことは、教会生活にも言えることです。教会が受け継いできた、まことの信仰を本来のところからずらそうとする働きは巧妙です。その意味では、昨年度の修養会で、日本基督教団信仰告白をご一緒に学ぶことができたのは幸いです。地味で、こつこつした学びですが、教会が何を信じてきたか、そのレールを脱線しないようにする大きな支えになっています。第1聖日に告白する使徒信条が、教会という列車のレールのような働きをして、主に守られていると考えることができるのです。


 代々の教会と共に、私どもの教会も、主イエスという逃れ場、救いのよりどころを世に証しする教会として立てられています。私どもは主イエスが呼び集めてくださらなければ、同席できなかった者たちです。教会に呼び集められた礼拝の会衆は、神の奇跡の出来事でもあります。私どもは、四方から、主イエスによって呼び集められた者たちであります。主イエスという魂の逃れ場をいただいた者たちであります。


 主イエスは、わたしのところに逃れなさい、と言われます。こうして礼拝をささげて、私どもは安心して主イエスのもとに行くことができる。逃れる恵みに与っているのです。

 今年度の主題聖句が、先週の教会総会で決まりました。その聖句には、礼拝という逃れ場が語りかけられているのです。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

 主はわたしを青草の原に休ませ

 憩いの水のほとりに伴い

 魂を生き返らせてくださる。」

 私どもの羊飼いである主イエスが、私どもの魂の逃れ場として、まことの平安に満たして導いてくださることを信じて、従っていきましょう。 



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