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2022年4月24日(日)聖日礼拝

 礼拝説教「耐え忍ぶ」 

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 13:1-13


<讃美歌>

(21)26,17,396,532,64,28


 主イエスは、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(13)と、弟子たちに熱意をもって語られました。その熱意は、まさにキリストの熱意です。熱意をもって語られたのは、弟子たちが耐え忍んでいく必要があったからです。生きていく上での、祈って耐え忍んでいくべきこともさまざまにあったでしょう。そのことでは、私どもと全く同じであります。主イエスは、神の憐れみ、神の愛の熱意をもって、信仰を抱いて耐え忍ぶようにと命じられたのです。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

 さらに、当時、弟子たちには危機が迫っていました。それは厳しい迫害によるものです。主イエスは前もって言われました。「あなたがたは自分のことに気をつけなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。」(9)

 「証しをする」というのは、どういう意味でしょうか。聖書辞典によると「イエス・キリストと彼による救いについて証言すること」とあります。しかし、当時のキリスト者が言葉で主イエス・キリストとその救いについて証言するときに、厳しい迫害を伴い、命を献げることもめずらしくなかったのです。ローマ皇帝を神として崇拝させていた時代に、主イエスこそが主なる神であると告白することによって命を奪われることもありました。ですから、「証し」(マルテュリオン)という言葉が、のちに殉教という意味で用いられたと言われます。そのような時代をキリスト者は生きていきました。

 しかし、はじめの教会の者たちは、主イエスの福音を伝えて生きる喜びのゆえに、死でさえも受け入れることができました。死の恐怖や迫害による脅しも、はじめのキリスト者の喜びを封じ込めることはできなかったのです。彼らには、尽きない喜びがありました。それは、「福音があらゆる民に宣べ伝えられ」(10)る喜びですが、立ちはだかる苦難にもまさっていたのです。

 そのような彼らは、主にあって自由であったと思います。明日はどうなるだろうかと、前もって心配せずにはおれないような厳しい状況におかれていました。しかし、その不安にまさる、主イエスからくる喜び、平安に生かされていたのです。日々に、主イエスを信じる信仰の確かさによって祈り、耐え忍んだのです。

 初代教会のキリスト者たちにとっては、日々にキリストを信じて、喜びと感謝をもって生きることが、永遠とつながる喜びでありました。とこしえに確かなキリスト(救い主)が、教会の主として私どもをご自身に結び合わせて、目に見える状況を乗り越えて、主なる神を源とした喜びに動かしてくださるのです。

 はじめのキリスト者は、キリストを信じる喜びのゆえに、耐え忍ぶことができる幸いに生きたのです。彼らにとっては、必死に耐えて我慢しているという思いよりも、主イエスに救われてすべてを赦されている、主イエスの福音に生きている喜びがまさっていたのです。そのことは、キリストの愛、神の愛が彼らを満たして支えていたということでもあります。

 

 さて、主イエスは、弟子の一人がりっぱな神殿を指して「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」(1)と言った時にこう言われました。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(2)エルサレム神殿が崩壊する時が来ることを言われたのです。

 弟子たちは、神殿が崩壊するほどの苦難が、いつ起こるのか、どんな徴(しるし)、前兆があるのかを、前もって知りたいと思いました。しかし主イエスは、いつ起こるのかについては話されずに、「惑わされないように気をつけなさい。」(5)と言われて、偽物の救い主が現れると忠告されます。戦争や災害の時にも、それが世の終わりではないと言われるのです。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。」(8)とは、現代の姿でもあるのではないでしょうか。

 しかし、「福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」(10)と熱意を持って語りかけられ、弟子たちを用いていかれました。そして、私どもを主イエス・キリストの救いを宣べ伝える者として用いてくださるのです。その使命の中で、むしろ教会は代々にわたって支えられ、主によって与えられる忍耐に生かされてきたのです。主イエスは今もなお、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と語りかけてくださっています。


 「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われた主イエスは、ご自身こそ、十字架の死に至るまで、耐え忍んでくださったお方です。そこには、十字架に命を献げられ、私どもの救いのために血を流された、犠牲の愛があらわれています。

 コリントの信徒への手紙一13章4節以下に「愛は忍耐強い。・・・すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」とあります。ここで言う「愛」は、神の愛、キリストの愛であり、私どもが、その「愛」に導かれ、また神の愛に倣って祈りつつ生きるように語りかけてくださるのです。

 その神の「愛」の中身は、先ほどの聖書の言葉に「愛は忍耐強い。・・・すべてに耐える。」とあるように、ひとつには「忍耐」です。キリストの心は、忍耐強く、すべてに耐えて祈り続ける心です。主イエスの心に私どもの心がつながって生きることができるよう祈り求めます。


 主イエスの心とつながることは、礼拝の恵みであって、私どもにキリストの心が注がれていくのです。それは、キリストを信じる喜びに生かされて、キリストの愛に導かれていくことです。キリストの愛の中身である、耐え忍ぶ心に私も生かしてください、と祈ることができるのです。

 そのように私どもを導くキリストの愛の心は、いつまでも続くものですから、消えない灯火(ともしび)を思い浮かべます。喜びの灯火と呼ぶこともできると思います。

 主イエスはこの箇所で、やがて訪れる危機の時にも、信仰を抱いて祈り続けられるように語りかけ、また、御言葉に伴う聖霊の働きに弟子たちをゆだねられました。

 教会では、主イエスの御言葉と共に、主ご自身の聖霊が働いてくださっていると信じています。主イエスは弟子たちに、迫害の時、「実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(11)と言われました。私どもに取りましても、主イエスの福音を聖書の言葉と共に語りかけてくださるのは、聖霊の働きです。

 礼拝においてこそ、聖霊は御言葉を通して語りかけてくださるのです。聖霊は、誰も消すことができない、神の命の灯火を御言葉と共に灯してくださるのです。私どもの心を、神の愛に燃やしてくださるのも聖霊であります。弟子たちを心燃やして導かれたキリストの霊である聖霊が、主の御言葉と共に私どもを導いてくださっているのです。

 この箇所で弟子たちは、神殿がくずれるほどの苦難が、いつ起こるのか、どんな前兆があるのかを、前もって知りたいとまず思いました。しかし、主イエスは、どのような時にも、耐え忍んで御言葉にしっかりと立つように導かれたのです。「耐え忍ぶ」という言葉は、「しっかりと立つ」という意味でもあります。それは、御言葉に「しっかりと立つ」ということです。御言葉に「しっかりと立つ」ことは、礼拝で主の御言葉を信じて導かれていくことです。代々に教会が歩んできたことでもあります。

 主は私どものことをすべてご存知の上で、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と語りかけてくださいます。その御言葉を実現してくださるのも主なる神のなさることです。主が支えてくださるから、忍耐もって祈ることができるのです。しっかりと御言葉に立つよう支えてくださる主の恵みを信じて、共に祈りつとめていきましょう。





 

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