礼拝説教「信じる喜び」
願念 望 牧師
<聖書>
ヨハネによる福音書 20:24-29
<讃美歌>
(21)26,194,325,333,64,28
礼拝では、聖書から神様の御言葉を聞き取ろうとします。どのように教会は、これまで神様の御言葉を聞き取ってきたのでしょうか。ひとつには、聖書の登場人物に自分を重ねるようにして読んでいくことです。この箇所ではトマスですが、主イエスがトマスに語りかけられた言葉は私たちへの言葉でもあります。主イエスがトマスと出会われたその出来事を、自分のことだと信じて思いを深めていきましょう。
トマスという主イエスの弟子が、ほかの弟子たちより遅れて、復活された主イエス・キリストに出会いました。とても有名な話です。これまでながく教会で愛されてきました。なぜ愛されてきたかというと、私たちとの接点、共通点を見いだしやすかったからかもしれません。よく、トマスのことを、疑い深いトマス、と呼んだりします。ほかの弟子たちから主イエスが復活なさったと聞いても、すぐには信じられなかった。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(25)と言い切りました。とても正直です。少なくとも信じたふりをしなかったのです。
ドイツのある神学者は、ディディモと呼ばれるトマス、という言葉に注目しました。ディディモというのは、ふたごという意味です。ふたごのトマスのもうひとりは、どうなったかはわかっていません。しかしその神学者は、もうひとりのトマスは、私たちひとりひとりだというのです。
ふたごのトマスのひとりとして、重ねて考えてみますと、自分だったらどうするだろうかと思います。ほかの弟子たちのところに、復活された主イエスが来られたときに、トマスはいませんでした。どうしていなかったのかは分かりません。実際にトマスは主イエスにお目にかかっていないので、主イエスが復活なさって生きておられることを伝えられても、到底、信じることができなかったのです。
ある日、トマスとほかの弟子たちは、家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。その日は、主が復活されたちょうど一週間後、私どもで言えば聖日、日曜日の礼拝のときです。イースター礼拝の翌週です。なぜ、復活された主イエスに出会ったのに、弟子たちは家の全部の戸にカギをかけていたかというと、ユダヤ人を恐れていたからでしょう。自分たちも、イエス様のように捕らえられて殺されるかもしれないと恐れたと思います。トマス以外の弟子たちも、一度はイエス様にお会いしたのですが、まだイエス様の復活を十分に信じていなかったのかもしれません。
しかしそのようなときに、主イエスはトマスと弟子たちのところに来られました。人にはできない、神様だけができるかたちで、鍵が全部かけられていたのに、入ってこられました。だれも踏み込めないところに、神様は入ってくることができ、働きかけてくださるのです。「あなたがたに平和があるように」(26)と主イエスは語りかけられました。トマスたちになさったように、私たちにも「あなたがたに平和があるように」と御言葉によって、働きかけてくださるのです。
「平和」という言葉は、訳すのが難しい豊かな言葉で、元々は旧約聖書のシャロームからきています。シャロームは、主なる神が、私たちのあらゆる弱さに、欠けたところ、その罪深さに働きかけて、赦しを与え、欠けたところを満たそうと働きかけてくださっている、主のお働きです。ですから「あなたがたに平和(シャローム)があるように」というのは、主が私たちの欠けたところを満たしてくださり、主の救いの恵みと喜びがあるように、ということです。主のシャロームがいかなるものか、主イエスがトマスがどのように働きかけられたかでよく分かります。主のシャロームはトマスに向けられました。
主イエスは、トマスをさばかれませんでした。家にカギをかけていたら、ほかの人は外から入ることはできませんが、トマスはその心にカギをかけるように閉じこもっていたかもしれません。しかしほかの人には踏み込めないトマスの魂の中に入っていかれました。そしてトマスの弱さを受け入れて、その罪を赦していかれた。まさにシャロームがトマスに与えられたのです。
トマスのことをすべてご存じである主は「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27)と語りかけられました。私たちにも、すべてをご存じである主が「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけてくださいます。
主なる神は、いかなるときにも、私たちの神として共にいまし、「あなたがたに平和(シャローム)があるように」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と愛をもって働きかけてくださることを、信じていきましょう。
トマスは主イエス・キリストの働きかけ、シャロームによって信仰を告白します。「わたしの主、わたしの神よ。」(28)トマスはいっしょにいた弟子たちの最後に主に出会うのですが、トマスの告白は、代々にわたる教会の告白として受け継がれてきました。
「わたしの主、わたしの神よ。」これはもちろん、身勝手な自分の願いを叶えるためのわたしの神、ということではありません。礼拝を献げる私たちが、ひとりひとり信仰を抱いて共に「わたしの主、わたしの神よ」と告白し、主の助けを祈ることができるのです。神と人とを愛して生きることができるように、主の助けを祈るのです。
教会に受け継がれたことは、「わたしの主、わたしの神よ」という告白だけではありません。トマスの後の時代に生きた教会は、主イエスを実際に見ないで信じていきました。「見ないのに信じる人は幸いである」(29)と言われた主の御言葉の働きかけのもとに生きていったのです。
見て信じるよりも、見ないで信じる方が、確かです。それは、見て信じている自分に頼ることから離れて、見ないでも信じることができるようにしてくださる、神様の確かさに生きるからです。トマスたちは、主の確かさを生きて、その喜びを伝えていきました。
私たちも、「見ないのに信じる人は幸いである」と言われた神様の確かさに生きています。主の復活を喜び、見えないのに確かにおられ、私たちと共にいて導いてくださる主を信じる幸いを伝えていきましょう。
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