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2022年4月10日(日)聖日礼拝(棕櫚の主日)

【受難節第6日】


 礼拝説教「献身のしるし」 

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 12:38-44


<讃美歌>

(21)26,12,313,512,64,28


 主イエスは「わたしの家は、すべての人の祈りの家と呼ばれるべきである」(マルコ11:17)と言われました。その御言葉は、この箇所にも響いています。

 ここに、ふたりの祈りが記されています。祈りの具体的な言葉は記されていませんが、ふたりの祈りの姿があります。そこには、明らかに、それぞれの祈りがあるのです。


 ひとりは律法学者で、当時の宗教的指導者です。主イエスは、「律法学者に注意しなさい。」(38)と言われて、「見せかけの長い祈りをする。」と批判しておられます。「見せかけ」というのは、自分を自分で正当化するという意味があります。また「見せかけ」ということは、神のまなざしではなく、ひたすら人からの評価を気にして生きていた、とも言うことができます。


 もう一方で、ひとりの女性のことが記されています。当時の社会で、もっとも弱くされた存在は、身寄りを失った子どもと、彼女のようなやもめでした。しかし彼女は、神のまなざし、キリストのまなざしに生きた、ひとりの女性として記されています。彼女はそのことを自分ではっきりと正当化することはできなかったし、自覚もなかったでしょう。しかしもはや、見せかけというような、人のまなざしに生きることはできなくて、ただ、神にしか注ぎ出せない思いを真実に言い表す祈りをもって、ひざまずいているのです。

 そして、彼女の心があらわされた献げものを主イエスは喜ばれました。そこに「祈りの家」としてのふさわしさがあるからです。


 当時は、神殿に献金箱が13個並べられていたと言われます。12個はそれぞれに、献金の目的が記されていたそうですが、隅にひっそり置かれた13個目には目的は書かれていなかった。おそらくは、この女性は、その献金箱の前で祈り、献げたのではないか。

 集まっていた人々は、多くの献金を献げる者たちに注目していたでしょう。多くを神に献げるそれ自体は、すばらしいことです。しかし、人々が、額の大きさに注目していたのとは別に、主イエスは、献げる人々の心を見ておられました。神に献げる心を見ておられたのです。そして、ひとりの女性の神への献身の心とその献身のしるしの献げものを心から喜ばれました。


 私事ながら、中学生まで書道を習いに通っていた頃、指導してくださっていた上所(うえじょ)先生は、毎年のように日展に入選される方でしたが、私たち兄弟のこともよく可愛がってくださった。あるとき、「願念くん、心という字はとてもバランスを取るのが難しいんだよ」と話してくださったのを思い出します。

 私どもの「心」もバランスを取りにくい、ということを経験するのではないでしょうか。私どもは、心を保ち、すこやかに生活しようと願い、祈るのですが、いつの間にか、バランスを崩してしまうことがあるのです。心で罪を犯すことがある。主なる神の赦しと助けがどうしても必要です。主イエスが、私どもの心を保ち、魂をすこやかにして生かしてくださるのです。


 主イエスは、ひとりの女性の献げものを喜ばれました。その献げものにあらわされた、信仰の祈り、献身の心を喜んでくださったのです。

「この人は、乏しい中から、自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」(44)


 「生活費」と訳された言葉は、「いのちそのもの」とも訳すことができます。すなわち彼女は、「いのちそのもの」自分の存在のすべてを神にあずけた、ということでもあります。

 彼女はもちろん、いつも持っている生活費を全部献げることはしなかったでしょう。主イエスもまた、そのようなことを求めておられるわけではありません。しかし、このひとりの女性は、すべてを神にあずけて祈る幸いを与えられていた。主イエスは彼女を祝福されたのです。

 私ども、彼女同様、乏しい中から、自らの存在をゆだねる献身のしるしとして、献げものをするのです。自分を主イエスにすっかりあずけていく、その献身のしるしとして献げるのです。

 献身は、私どもの側からのことのようですが、そこにも、主のお働きがあるのです。主イエスが、私どもの心、魂を守り、御自身の聖なる御心につないで、捉えてくださるからできるのです。主イエスの心によって、私どもの心は定まり、休み場を与えられることができるのです。主イエスによってこそ、私どもはすこやかに祈りながら、ゆだねて生きることができるのです。


 今日は、受難週の礼拝でもあります。私どもは、祈りということでは、もう一人のお方の祈る姿を思い起こすべきです。

 それは、主イエスの祈る姿です。主イエスが十字架を目前に控えて、ゲツセマネで祈られたことを思い起こします。そこには、まことの献身の姿がありました。

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心(みこころ)に適(かな)うことが行われますように。」(14:36)


 「この人は、乏しい中から、自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」と言われた主イエスは、聖なる命そのものを献げていかれました。私どもの一人となってくださり、私どもの乏しさ中にひざまずいて、父なる神に祈ってくださったのです。

 一人の女性の献げる姿を主イエスが喜ばれたのは、彼女の祈りと献げものが、主イエスの十字架への献身を指し示していたからではないでしょうか。ひとりの女性が持っている物全部を献げたら、明日から生きていくことができないのではと思ってしまいます。しかし弟子たちも、主イエスが十字架に命を献げられたら、どうなってしまうのかと思って絶望したはずです。しかし、絶望の彼方になおも、希望があり、主の復活がありました。弟子たちの誰ひとりとして見据えることができなかったでしょう。しかし、乏しさの極みである死の床に、主イエスが横たわってくださり、そこを復活の場としてくださったのです。死の彼方に、絶望の中に、なおも主の御手のお働きがあることを、主イエスは確信して、すべてを父なる神にゆだねて歩み抜かれたはずです。


 先日、ある詩編の言葉を思い起こしました。

 88編の最後ですが「愛する者も友も あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」(19)

 詩編の多くは、嘆き悲しみが、主なる神への讃美、たたえへと変えられていく歌をつづっているのですが、詩編88編は「今、わたしに親しいのは暗闇だけです」と結んでいます。しかし、絶望の詩編と呼べるような詩編が、かえって深い嘆きと絶望に寄り添い、いっしょに絶望の暗闇の中に立たれる主を指し示すかのように、慰めを与えてきたと思われます。

 暗い部屋に入ると最初は真っ暗ですが、目が慣れてくると、少しずつ見えてきます。暗いければ暗いほど、光をよく見ることができます。暗闇のただ中で、おそらく詩編の信仰者は、絶望の闇の彼方にかすかに見える、しっかりと輝く光を見据えていったのではないかと思います。これは想像でしかありませんが、闇にかすかに見えていた光が突然大きな輝きとなるかのように、88編に次ぐ89編は冒頭で、「主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。わたしの口は代々に あなたのまことを告げ知らせます」と高らかに歌っています。まるで、絶望から希望への歌になっているのです。主をたたえて歌いいつつ、主のまこと、真実を告げ知らせたのです。詩編を編集した、いにしえの神学者はあえて、88編と89編を並べたのではないか。

 それは、主イエスの十字架の死と復活を指し示していることになっていると思います。


 ひとりの女性の祈りと献げものを喜ばれた主イエスは、「わたしの家は、すべての人の祈りの家と呼ばれるべきである」とお命じになって教会をここまで導いてくださいました。私どもも、祈りの家の祈る者たちとして、祈り励んでいきましょう。

 祈るときに、乏しさの中で祈ることを忘れてはならないのです。それは、いつまでも続かない光の中で祈るのではなくて、あえてこの世の乏しさの中で、主の輝きを見つめ続けて祈るということです。つらく厳しいことがあっても、その乏しさのただ中に主なる神が立っておられ、絶えず希望へと導いてくださることを信じて、共に祈っていきましょう。

礼拝を共に献げて祈る中で、ご一緒に「主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。わたしの口は代々に あなたのまことを告げ知らせます」と主をたたえて、主のまこと、主の救いを告げ知らせていきましょう。



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