【受難節第1主日】
礼拝説教「ゆるしてくださる」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 11:20-25
<讃美歌>
(21)25,18,55,295,65-1,28
今日与えられています聖書の箇所は、マルコ11章20~25節ですが、ここには、「祈る」ということについて、とても大切な教えが記されています。
「祈る」というと、何か願い事をする、という風に考えがちであるかもしれません。しかし、旧約聖書の預言者の姿を思い起こしますと、そこにある祈りの姿は、まず、神に聞く姿です。例えば、サムエルという預言者は、幼い頃に、貴重な祈りの経験をします。それは、「主よ、お話しください。僕は聞いております。」(サムエル記上3:9)という姿勢です。
幼いサムエル、少年であったと言うべきかもしれませんが、彼が、教える立場に立つ者としてではなくて、聞くべき者として、神の前にひれ伏したのは、とても大切なことです。主イエスの言葉を思い起こします。それは、マルコ10章15節「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 子どものように、というのは、教える立場にまず立つのではなくて、サムエルのように神に聞く者として頭(こうべ)を垂れている。そのように祈り求めている、ということではないでしょうか。
また、サムエルのように、「主よ、お話しください。僕は聞いております。」と、神に聞こうとして祈るとき、疑うことから守られていくはずです。
今日の箇所でも、23節には「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるなら、そのとおりになる。」とあります。主イエスは、たとえとして、23節で語っておられるのです。「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」
私事ですが、子どもの頃に、確か小学校の1・2年生ぐらいだったのですが、この箇所のお話しを、力強くCSの先生から聞きました。家に帰って、裏山に行って、まじまじと眺めたことがあります。もし海に向かって動いたら、山の向こうにある、○くんの家がつぶれてしまう。そんな具体的なことまで考えました。
ここでは主イエスは、たとえとして語られているのです。弟子たちの誰一人、実際の山に向かって命じた者はいなかった。あるいは、教会がそのように命じたらどうだったかなどという話もないのです。
弟子たちは、あるいはまたマルコの教会は、主イエスがここで言われる、「山」が何のことであるか、わかっていたでしょう。何を「山」にたとえて教えておられるか、よくわかっていたということです。それは、自分たちの思い通りにいかない、立ちはだかる、困難の山と言うべきものであります。あるいは、自分たちの力ではどうしようもない、罪の山です。
ある詩編の言葉を思い起こします。神への信仰を告白した詩編の中に、有名な121編がありますが、
1-2節「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。」
山が動くというときに、主イエスが、ここで、まず「神を信じなさい」と語られているのは、聞き漏らしてはならないのです。
「神を信じなさい」というのは、元々の、言葉のならびで直訳しますと
「持ちなさい、信仰を、神の」となります。ある英語の聖書は、「神の信仰に養われなさい」と訳しています。また、「信仰」と訳される言葉は、「真実」という意味でもあります。ですから「神の真実を持ちなさい」と訳すことができます。「神がもっておられる真実、その確かさにこそ生かされなさい」ということです。
私どもが動かすというよりも、むしろ主なる神が動かしてくださる真実を信じていくのです。すでに、主イエスによって、私どもが動かせない、罪の山が動いている、そのことを信じて生きるのです。
ここで、主イエスは、ご自身の言葉通りに枯れてしまったいちじくを見て驚く弟子たちに語っておられます。枯れたいちじくの木は、葉ばかりが茂って、立派であったが、実を結んでいなかった。それは確かに季節ではなかったのですが、当時荘厳な建物を誇っていた、エルサレム神殿とそれに関わる人々と重ね合わせて理解されるのです。それは、見かけ倒しで、中身がなかったということです。そのことは、主イエスがここで語られている、祈りについて考えますと、祈ってはいるが、祈りになっていない、あるいは、祈りの実を結んでいないということになるのです。
そのような、中身を失った祈りに陥らないために、主イエスの「神を信じなさい」という御言葉を心に刻んで生きることです。真心から、神を信じて祈る。それは、神の確かさにこそ、希望をおいて祈るということです。神は必ずなし得ることができると信じて祈るということです。たとえ、祈りが聞き届けられていないかに思えても、神は御心ならば、この祈りを聞くことが出来るお方であるという信仰を捨てないことです。
神の御心を求めて祈るというのは、とても大切なことで、それを忘れて祈る中で、私どもは罪を犯すことがあるのです。「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、その通りになる」というのは、利己的な、自分勝手な祈りと紙一重であると思います。そのような利己的な祈りにおいて罪を犯していることがあるということです。「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、その通りになる」という主イエスの言葉を、身勝手に利用してはならないのです。
あるいはまた、祈りというときに、ある神学者が、今日の箇所についての説教の中で、こんな話を記しています。それは、日本の教会では礼拝堂に入ったときに、特に決まった入り方はありませんが、例えば、ドイツの教会などでは、ひとつの習慣があるそうです。それは、自分の席でまず立ってお祈りをしてから座るというものです。
ある子どもが、お父さんと一緒に入ってきて、その姿をじーっと見ていたそうです。そして、「何をお祈りしたの」と質問したそうです。その父親は、即座に答えることができなかった。習慣化していて、祈りの形は取っていたけれども、正直、神に祈りをささげていたとは言えなかった、ということです。
その父親は、その時、今日の箇所の、主イエスの言葉を思い起こしたというのです。
25節「立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
ひとりの父は、礼拝堂に入ってきたときに、まず赦しを祈るようになったというのです。私どもも、礼拝をささげるときは、ひとつには祈りのときでありますが、まず、自分が恨みに思っている人を赦せるように祈る必要があります。そして、自分の罪の赦しを求めるのです。まさに、主イエスの祈りにあるとおりです。「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をも赦したまえ。」
祈るときに絶えず心におぼえるべきことは、私どもが自分では動かしがたい、赦せない心の山を、主が動かしてくださることです。主が憐れみをもって働きかけてくださるのは、私どもを赦してくださるためです。そして、互いに主の赦しに生きて赦しあうためであります。
そのような、真実な神のお働き、主イエスの赦しを信じて祈るときに、赦せない心、疑いや利己心も追いやられていくのであります。祈りの実を豊かに結んでいくのであります。
主が真実に赦してくださることを信じて祈って生きることは、大きな喜びです。
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