【受難節第5日】
礼拝説教「喜んで聞く」
願念 望 牧師
<聖書>
マルコによる福音書 12:28-37
<讃美歌>
(21)26,1,155,483,64,28
マルコによる福音書を少しずつ学んでいますが、今日与えられています箇所には、主イ エスの教えに大勢の者たちが、「喜んで耳を傾けた」(37)と記されています。今日の説教 題は、「喜んで聞く」としましたが、それは、人々が主イエスの教えに喜んで耳を傾けた、 そのことを受けてのことです。
主イエスの教えに喜んで耳を傾けていくことは、もっと積極的な言い方をすれば、自ら の存在をあずけるようにして聞くことですが、信仰生活の大きな喜びです。マルコの福音 書が最初に届けられた当時の教会も、主イエスの教えに喜んで耳を傾け続けたのです。そ の教え、御言葉に自分たちのすべてをあずけるように喜んで聞きました。それほどに主イ エスの教えを喜んで生きたのです。そのようなマルコの教会の者たちが、ここに自らの喜 びを重ね合わせるように、「イエスの教えに喜んで耳を傾けた」と記しているのです。
私どもも、自らの存在をゆだねることができる教えとして、主イエスの言葉を聞くこと が出来るのです。それは、主イエスの教えを神の言葉として、信頼して聞くということで す。マルコが告げる信仰の喜びに、私どもも信仰の思いを深めていきましょう。
ある夏のことですが、CS(教会学校)のキャンプで、旧約聖書のアブラハムの物語を 学びました。どんな話かと言いますと、アブラハムは、ある時、神様から言われます。「あ なたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。」(創世記の12章1 節)という思いがけない語りかけです。転勤を思い浮かべると分かりますが、普通は、行 き先が告げられてから行くものです。しかし彼は、主の御言葉に従い、行き先を知らずに 準備をしました。そして、神の言葉に信頼して歩みだしたときに、彼の行くべき地が示さ れていったのです。それはカナンの地であります。しかし、アブラハムはそこでどのよう な生活が待っているか、知らなかった。ただ、神の言葉を信じ、その御心の導きのもとに あることを信じてその身をゆだねていったのです。「祝福の源となるように」という神の 約束に信頼していったのであります。
そのようなアブラハムの信頼を思い巡らす中で、今日の箇所と繋がってくる思いがしま した。それは、信頼がなければ喜んで聞くことができないからです。アブラハムが神への 信頼をもって聞き従ったように、主イエスへの信頼がなければ、喜んで聞くことは出来な いのです。
神の言葉を聞く喜びを失っているかのような時に、私どもは、つぶやくことがあります。 なぜ語ってくださらないか、なぜ、喜びをもって聞けるようにしてくださらないのかと不 平を言うかもしれない。しかし、聞く私どもが、信頼を忘れていることがあるのです。自 分をあずけることをやめていることがあるということです。ただ聞いて一時的に喜ぶだけ で、従うことはしたくないことがあるのです。
信仰生活は一時的なことではなくて、いつまでも続く、神との関係、主イエスに救われ た喜びに生きることです。その喜びの中で、何度も何度も御言葉を聞き直していくことが できるのです。そうして、主イエスの蒔かれた御言葉が、私どもの内に根をおろしていく のです。それは、主イエスを信じて信頼しているから、御言葉が根付くのです。御言葉が - 2 - 根付くときに、さらに私どもは御言葉を喜んで心に響かせて、主の御言葉を生きるように なっていくのです。
相手に対する信頼、心をあずける思いを失った関係では、相手の言葉が、全くこちらに 響いてこないことがあるかもしれません。しばしば私どもは、それを相手の性にしてしま い、ますます、信頼関係を壊していくのです。そのようなときに、私ども自身が問われて いることを認めたくない。夫婦の関係、家族の関係、職場や近隣の方、友人や親戚との関 わりの中で、自分をまず問い直すことはしたくない。相手をまず問い直したいことがある のです。
相手を問うことはずいぶん上手にできるように思います。私も、身に覚えのあることで す。牧師たちが説教の学びをする、説教塾があるのですが、牧師たちが、互いの説教を批 評し会うことがあります。ある時、主宰者の加藤常昭先生が、批評は上手にできるが、批 評を聞くことがうまく出来ないと言われたことがあります。厳しく批評されると、次には 来なくなる。そう嘆かれたことがあるのです。
さて、今日与えられています箇所は後半の最後に「イエスの教えに喜んで耳を傾けた」 とあります。前半と後半、二つの物語が記されていますが、明らかに、主イエスの教えの 響きのもとで繋がって語られています。どのような響きか。それは、前半の 28 節からの主 イエスの教えに対して、「おっしゃるとおりです」と喜んで聞いた、その教えを聞く喜び で繋がっているということです。
「おっしゃるとおりです」というのは、ある神学者は「見事です」と訳しています。主 イエスに向かって、あなたの教えは、「見事です」と告白する。そこに、深い信頼が、信 仰が言いあらわされているのです。
主イエスは、当時の人々が、おびただしい戒めに囲まれて生活していた中で、何が主の 教えの中心かを明らかにされました。人々は、戒めに疲れていたのです。それに対して、 主イエスは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神であ る主を愛しなさい。」(30)そして、「隣人を自分のように愛しなさい。」(31)とお命じに なった。これは、実に「見事な教え」です。
全身全霊をもって神を愛し、また隣人を自分のように愛することをお命じになった主イ エスの教えは、実に見事で、信頼をもって喜んで聞くことが出来るのです。主イエスの教 えに、「見事です」と告白して、その教えに生きることを祈り求めていくことは、信仰生 活の喜びであります。
しかし、続く後半の箇所は、すぐに喜んで聞くことが出来るでしょうか。戸惑いさえ覚 える方がいても不思議ではない箇所です。あるいは、何を当時の人々やマルコの教会の信 仰者が喜んだのか、正直ピンとこないという方もいると思います。
それは、主イエスが語られた「どうしてメシアがダビデの子なのか。」(37)という言葉 からきていると思います。「メシア」というのは「キリスト」、救い主のことです。ここ で、主イエスは、キリスト(救い主)である自らがダビデの子孫ではない、と言っておら - 3 - れるかのようです。主イエスは、私どものひとりとして、ダビデの子孫としてお生まれに なったのですが、人となられた主なる神でもあります。ですから、救い主は「ダビデの子」 というよりも、人となられた主なる神であるのです。
さらに、ここで問題になるのは、当時の人々が、「ダビデの子」というときに、「ダビ デの子孫」という意味以上に、ダビデのような救い主(メシア)を思い描いていたことに あります。それは、世俗の王として、ローマの支配に対して、力に対して力で対抗して、 戦争をしてでも勝利を与える救い主です。
主イエスは、そのような救い主となることをここで拒絶しておられるのです。そして、 それを示すために、詩編 110 編を引用して説き明かしておられるのです。そのことはまた、 主イエスが前半で語られた愛の掟(おきて)に自らも従い、神の愛によってどこまでも生 きていくことを明らかにしておられるということです。
主イエスが愛の掟にどこまでも生きて、敵をも愛されたように、私どももそれに倣うよ うに命じておられます。父なる神への信頼をもって十字架にその身をゆだねられ、死に勝 利してよみがえられたように、人を幸いに導かないすべての罪を、あらゆる悪を足もとに 滅ぼしてくださるときがくるのです。そのことをここに宣言しておられます。実に喜ばし い、希望ある教えです。
教会は、いつの時代にも、ずれた救い主の理解にさらされることがあります。しかし、 いつも、主イエスの教えに従って、正しいキリスト理解に立つのです。そのために、主イ エスの愛の教えを中心とした御言葉に生きることを祈り求めるのです。
主イエスの教えは実に豊かであって、何度も何度も繰り返し学ぶことができます。新た に御言葉の響きを礼拝の中で教えられ続けて、謙遜へと至る悔い改めを与えられるのです。 主イエスの教え、その御言葉の語りかけによって、私どもを生かす主の愛が与えられ続け ます。そこに信仰生活の喜びがあるのです。それは尽きることがない喜びです。
主なる神が与えてくださる愛と喜びは、私どもの内に根をおろし、成長していくのです。 主なる神が憐れみをもって喜びと愛の実を結ばせてくださることを信じて、主に聞き従っ ていきましょう。
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