top of page
shirasagichurch

2022年3月27日(日)聖日礼拝

【受難節第4日】


 礼拝説教「思い違い」 

 願念 望 牧師

<聖書>

マルコによる福音書 12:13-27


<讃美歌>

(21)25,8,294,531,65-1,28


主イエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(17)と命じられました。これはとても有名な言葉です。しかし、「皇帝のもの」か、あるいは「神のもの」かというような、何か別々のことのように言われていると誤解されることありますが、主イエスは一つのことを教えようとされています。しかも神の愛をもって語りかけられました。その主イエスの言葉に私どもも思いを深めていきましょう。

 

 主イエスがここで「皇帝のもの」と呼ばれた、ローマ帝国の硬貨には、当時の皇帝の肖像が刻まれていました。「皇帝のもの」は「皇帝の肖像」という意味にもなります。そして、その「肖像」という言葉は、別の箇所では「かたち」と訳されることもあります。


 そのことは、「神のもの」についても言えることで、「神のかたち」と訳すことができます。それは、神のかたちが刻まれたもの、神に似せてつくられた者、ということです。


 ですから、明らかに主イエスは、「神のもの」という言葉で、「神にかたどって創造された」(創世記1:27)人である、私どものことを語っておられるのです。神のかたちに似せて、その性質が刻み込まれた存在として、私どものことを「神のもの」と呼んでくださっているのです。


 そうしますと、「神のものは神に返しなさい。」というのは、物やお金のことよりも、むしろ、私ども自身のことを指して言われているのです。私どもを神のものとして、神にお返しして、神に献げて生きるようにと命じておられるということです。

 そして、そのように神に自らをゆだねて生きるとき、皇帝のものを皇帝に返す自由も与えられるのです。皇帝のものもまた、神から与えられたものであるがゆえに、返すことができるのです。


 この世のさまざまな問題に直面しつつも、この世に支配されているのではなく、そこから自由にされて、神のものとして生きることができるのです。それは、主イエスが恵みをもって、私どもを神のものとしてとらえてくださってからです。


 あるいはまた、神のかたち、というときに、主イエスこそが、もっともふさわしく神のかたちを表してくださいました。いやむしろ、私どものひとりとなってくださった、神御自身そのものであります。


 主イエスはここで、私どもに代わって、ふさわしく神のものを神にお返しする覚悟をもって語っておられるのです。私どもにだけ、ただ「神のものを神に返しなさい」と言われるのではないのです。


 すなわち、主イエスは、十字架に神のものとして、ご自身の命をお献げになる、その神の道をここに示しておられるのです。

 主イエスは私どもに先立って、ふさわしく神のものを神にお返しくださいました。主イエスのそのような恵み、救いによって、私どももまた、喜んで神に自らをお返しすることができるのです。それは、自らを神にゆだね、献げて生きる献身の生涯であります。キリスト者の生涯は、献身の生涯でもあります。


 主イエスの救いは、私どもを愛し、罪赦して、神のものとしてくださったことです。

 その恵みに応答して、私どももまた、主イエスを愛して、神のものを神にお返ししていく喜びに生きていくことができるのです。


しかし、24節には強い調子で主イエスの御言葉が語られています。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。」(24)聞く者の心に突き刺さるような言葉です。思い違いをしているというのです。ここで直接に主イエスからその思い違いを戒められているのは、サドカイ派と呼ばれる人たちです。しかし、そのような主イエスの言葉がここに記されているということは、かつてサドカイ派に語られた言葉であるだけではなく、当時の教会が、この主イエスの言葉を、自分たちへの神の言葉として聞いて、思い違いを改めていったということです。私どもも心を傾けて聞くべき神の言葉として語られているのです。

 「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。」(24)「聖書も神の力も知らない」ことから、私どもの思い違いが生み出されているというのです。「聖書も神の力も知らない」というのは、単なる知識の問題ではない。言い換えるなら、主なる神のことを知らないということです。

 

 ある日、教会の集まりで、ある方がザーカイという聖書の登場人物が大好きだと言われました。ザーカイの話はどんな物語かと言いますと、ある日、主イエスがザーカイの住んでいた町に来られたのです。

 ザアカイは、必死で主イエスに会おうとしました。一目見たいと思ったのです。

 しかし、ザーカイがのぼっていた木の下まで主イエスが来られたとき、主イエスが立ち止まられた。そして、木の下から主イエスが、「ザアカイ」と呼ばれたのです。名前で呼ばれたのは久しぶりだったはずです。ザーカイは、「清い人」という意味があります。そのとき、彼は徴税人として生きていて、金持ちであった。不正に多く取り立てることもあったと思われるので、人々から嫌われていました。そんなザーカイを主イエスは名前で呼んでくださった。しかも、「降りてきなさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」とまで言われたのです。

 捜していたのは、ザアカイの方ではなくて、むしろ主イエスでした。ザアカイも「神のもの」であったのです。ザアカイよりも先に、主イエスはザーカイのことを知っておられました。そこに、ザアカイの思い違いがあったのです。その思い違いは、ふさわしく改められていきました。それはザアカイが、主イエスに出会ったからです。どんなにうれしかったでしょう。生涯、喜びに生かされていった。神との出会いを与えられたからこそ、そこに、思い違いがなくなっていった。私どもも、自分が主イエスを求めて集っているようでありながら、主イエスの方ではじめから知っておられ、捜してくださっているのです。


 サドカイ派の者たちは、どのような思い違いを主イエスから戒められているのでしょうか。彼らは、当時、復活を信じない者たちでありました。彼らは、目に見える現実だけを信じていたということでもあるでしょう。彼らは人の死において、なおもそこにある希望を信じていなかった。人が死を迎えるときに、愛する者のすべてを神に委ねることができる、そのような希望を持っていなかったのです。人が死んでも、永遠なる神の復活の命の中に目覚めることができる、そのような信仰を受け入れていなかったのです。

 サドカイ派の者たちは、自分たちの正しさを主張するために、主イエスのもとに来て、議論をはじめます。復活はないことの証拠として、旧約聖書の中から、引用しています。申命記(25:5-6)から彼らの論拠を導いているのです。彼らは、ある意味で聖書をよく知っていました。モーセ五書と呼ばれる旧約聖書の最初の五つの書だけを信じていたのです。それだけ、自分たちの信仰の純粋性を誇りとしていたということでもあります。

 しかし、彼らの話は、極端な仮定の話です。屁理屈と言ってもいいかもしれないほどのものです。しかし、復活はないことの論拠として、これまでにも同じような問答を仕掛けていたようです。

 それに対して主イエスは、あなたがたは「聖書も神の力も知らない」と語られます。聖書の読み方を間違っているということです。先の申命記の箇所は、彼らのように、復活がないことの根拠にすべき箇所ではないのです。まして、復活がないわけではない。むしろ、モーセの書に記されていることが、復活の希望があることの証しであるのです。

 出エジプト記3章9節に、神がご自分を指して、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と語っておられます。そのことに触れて、主イエスは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という神の言葉自体が、復活の希望を伝えている、と説き明かしておられるのです。なぜなら、27節にあるように、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神。」だからです。ですから「アブラハムの神」というのは、かつて生きていたが死んで滅んだあの偉大な信仰者アブラハムを導いた神ということではないのです。確かに、かつてアブラハムが地上での生涯を送ったときに、あの信仰の父とまで尊敬されるアブラハムを導いて、彼に信仰を授けて働かれたのは、まさに「アブラハムの神」であります。しかし、やがてアブラハムが地上の生涯を終えて、死の支配のかなたに彼のすべてが消え失せるその時にも、それをゆるすことなく、アブラハムを神の復活の命の中になおも目覚めさせたのは「アブラハムの神」であります。

 ですから主イエスがお語りになっておられるように、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」を信ずる私どももまた、生きている者の神として、希望を抱くことができる。愛する者のすべてをその死に際しても、神にゆだねることができるのです。私ども自身をゆだねることができるのです。そのような信仰を、主は私どもに授けてくださいます。主イエスから与えられる信仰です。主なる神は、復活という「神の力」による出来事を私どもに、主イエスの御言葉を通して教え、その信仰を与え続けてくださるのです。主イエスは、私どもの思いをすべて知り尽くした上で、なおも包み込み、慰めて導いてくださるのです。主イエスから来る喜びに生かし、慰めてくださることを信じて、私どもは励んで主に仕え、互いに祈り支えながら生きていくのです。。


 教会が、一本の木にたとえられることがあります。キリストという幹に接ぎ木された私どもひとりひとりということです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(ヨハネ15:5)私どもが、主イエスにつながる枝だということは、キリストなしには、私どもはあり得ないのです。キリストとつながり、主イエスの聖なる命とつながって生きるからです。主イエスの聖なる命とつながっているということは、主イエスの心に結び合わされている私どもです。神のものとされた恵みに生きるということです。

 主イエスの御心によって、私どもは心を定めて生きることがゆるされているのです。礼拝でこそ、思い違いを改められて、主イエスは心を定めてくださいます。礼拝で神の力に満ちた御言葉を聞くことが、主イエスという木につながっている枝の姿です。その恵みの中で、主イエスがその御心によって導いてくださるのですから、私どもの心の思いをしっかりと定めて、主イエスの喜びに生きていきましょう。



閲覧数:17回

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page